八世界:サブライムとノスタルジア(さようなら、ロビンソンクルーソー)

下巻のさようなら、ロビンソン・クルーソーも読み終わったのでこれでヴァーリィの八世界の短編はコンプリート

ヴァーリィの短編の特徴はざっくりそれぞれ対置される4つの要素にあるように思う

 

                                                               世界

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               ノスタルジア                                             サブライム

否定的←                                                                                                      →肯定的

       テクノロジーによる疎外/孤独                 テクノロジーによる解放/自由     

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                                                               社会

 

 

■びっくりハウス効果

SF作家が観光ホテル化した彗星に乗って太陽をまじかで見るツアーに参加。

アトラクションとして趣向を凝らすため、客には事前に記憶喪失の処置を施して

さまざまな仕組まれたアクシデントを楽しんでもらおうという趣向。

 

太陽のそばを通過するシーンはこのたんぺんのなかで最もサブライムな箇所だ。

 

“それでもサーラスはまだ彼のくるぶしをつかんでいた。彼女だけが、彼の宇宙に残された唯一の存在だった。その他には、わずかな残骸が、輝く小さな星となって、はるか彼方をくるくると回転しているだけだった。

そして太陽だ。

十秒ごとに視野を横切っていく太陽を、彼は直接見ることができた。ほとんど球体には見えず、通り過ぎるごとに、それは平らなm沸き立つ平面となって視野に広がっていった。荘厳で、圧倒的な存在感を持つそれは、ほとんど耐えられないほどの重圧でもって、彼の自我を押しつぶした。”

 

終盤はSF作家の1人称語りということもあり、ヴァーリィのSF観がストレートに出ている気がする。

 

“誰がなんと言おうと、スリルはたやすいものではない。それを生み出すには技術がいるし、芸術性も必要。また本当のスリルとは何で、単に面白いだけものは何かという知識もいる。”

 

アトラクション中にできた絆は記憶の回復とともに失われてしまう(テクノロジーによる孤独)

 

“もしも二人の心が自分たち自身のものであったら、今でも親密なままでいられたかもしれない。しかし、あの魔法の言葉が発せられたとたん、自分がそれまで演じていた存在とは違う人間だとわかってしまったのだ。愛した相手が、思っていたような人間じゃないと知ることですらつらいのに、自分だと思っていた人間が自分じゃないというのは、それほどきついことか。”

 

ここで記憶を消去するという技術は、エンターテイメントによりスリルをもたらす一方で、自己同一性を脅かし不安をもたらすものとして描かれている。テクノロジーの両義性が現れていると言える。

 

“わたしは、サーラスが、共に見ていた夢から覚めたときに見せたあの表情を、決して忘れはしない。夢は去った。サーラスは私がそう思っていたような人物ではなかった。わたしは、どこか別のところで、〈慰め〉を探さなければならないのだろう。”

 

上巻の感想で書いたコメントをもう一度書いておく。

八世界を通底しているのは、故郷を失った悲しみだ。故郷を失い、アイデンティティの寄る辺を失い、それでも人は誰かとのつながりを求めてあがいている。

 

■さようなら、ロビンソン・クルーソー

冥王星のリゾートで過ごす二度目のプレ思春期とその終焉を描く。

 

“さようなら、南海の楽園よ。こうなるまでのきみは、愉快な遊び相手だった。いまのぼくはもうおとなだ。これから戦争に行かなくちゃならない。

たのしくはなかった。いくらその時期がきたとはいえ、幼年期を後にするのは体の一部をもがれるように辛いことだった。今や自分には責任がのしかかり、それを背負っていかなくてはならない。”

 

テクノロジーがつくる楽園はけっきょく箱庭だ。

二度目のモラトリアムに別れを告げ大人の世界へと戻っていく。

 

ブラックホールロリポップ

八世界短編の中では最もゆるい。なにせブラックホールがしゃべるのだから。いちおう人知を超えた存在という感じにはしているが、しゃべる時点でコミュニケーション可能なのにはちがいない。(その点、人を介して喋ったマインドイーターの野生の夢はうまかったと思う)

 

シナリオ的にはクローンと人口制限の問題があり、テクノロジーによる疎外が主題となっている

 

■イークイノックスはいずこに

土星のリングを舞台に、生き別れた5つ子をさがす、ロードームービー風のお話。やや冗長にも感じるけれど、子供と巡り合う苦労を実感するにはこのボリュームが必要か。締めが秀逸。

 

■選択の自由

性転換技術をめぐる人々の戸惑いと変化を描いた作品。性転換技術はこれまでも出てきたけれど主題に据えて掘り下げたのはこれが唯一か。ヴァーリィらしいサブライムな情景描写やモラトリアム感はないけれど、退屈さは微塵もない。というのも作品に起因するというよりは読み手たる自分とその取り巻く環境に起因しているように思う。要はテーマが今日的で興味深いわけだけれど、この小説の初出は1979年。40年前! 時代が作品に追いついたという感じだ。

近視眼的に作品を書いてはいけないという戒めとして受け取りたい。

 

ビートニク・バイユー

「愛は性を超えるか?」というのが選択の自由のテーマだとしたら、ビートニクバイユーは「愛は時差を超えるか?」というテーマだろうか。

プロの子どもとして教育に従事する人が出てくる。その職業ゆえに子どもでい続けなければならない。

恋愛に年齢差は関係ないとはよく聞く言葉だけれど、共に時間を積み重ねて変化していくことができないのなら、それでも愛は変わらずにいられるだろうか? テクノロジーがもたらす孤独がここにも現れている。

 

 

後になるほどテーマはシリアスになっていく反面、軽やかさ、若者の視点がだんだん薄れていくように思った。