蝉時雨とヨコハマ買い出し紀行
去年の十一月、アニメ趣味の人たちの飲み会に呼ばれたことがありました。
もっぱら相槌を打ちつつ勉強させてもらうという感じでした。
まあアニメの同好の徒らとはいえ、周りに比べると自分はそれほど詳しいわけではないわけで。
そのとき会話の前後の流れはよく覚えていないけれど、「おすすめ」と紹介された作品がマジカルエミのOVAの蝉時雨でした。
日ごろからヨコハマ買い出し紀行をマイベスト漫画と言っていたからだったと思う。蝉時雨の監督の安濃高志さんはヨコハマ買い出し紀行のOVAの監督も務めている。
後で調べたところ鶴田謙二のSpirit of wonderのOVAも監督をしていたことを知り、完全に自分の大好きラインの人だとわかりました。
チャイナさんはよく模写して描いたものです。
意を決してマジカルエミのBOX、ヨコハマ買い出し紀行のOVA、それとSpirit of wonderのOVAのDVDも揃えた(先月はこれでかなりの出費になった……)
以下蝉時雨周辺の雑感メモになります。
■ヨコハマ買い出し紀行と安濃高志監督
ヨコハマ買い出し紀行OVAのおまけの原作者芦奈野ひとしのインタビューにはこう書かれています。
Q. 監督の安濃さんなんですけど、芦奈野先生も昔からご存じだったそうで、いつ頃から安濃さんを意識し始めたんですか?
A. 昔ちょっとアニメに関わっていた、その時代ですね。だからもうかれこれ10年くらい前、その時代に安濃さんの「蝉時雨」が仲間内で話題になってんですよ。今までこんなのあまりなかったと。普通あの時代からアニメってドンパチドンパチがはやり始めてて、動きがどうか、というのが第一だったんですけど、安濃さん間というか、空間というか、そういうのを大事にしている印象を受けました。今回、その方が監督をしてくださるということで、なんと幸運なんだ、と思いました。
原作者:芦奈野ひとしインタビュー(OVA ヨコハマ買い出し紀行)
ヨコハマ買い出し紀行も、時間の流れと風景が重要な作品ですから、どこか通底したものを感じます。
「あの時代」というのは、「蝉時雨」の制作は1986年なので、同時期のアニメ作品だとZガンダムとか愛・おぼえていますかあたりでしょうか。もう少し時を下ると1988年にAKIRA、1989年には御先祖様万々歳やポケ戦が出てくるので、この頃にはリアル系作画が大きな潮流になっている様子。井上俊之さんなどの史観だとAKIRAをメルクマールに以前以後と分けてるようですがそれ以前からリアル系作画の勃興があり、1988年にそういった流れがAKIRAに結集したと考えるのが自然なのでしょう。芦奈野先生のインタビューからはそんな時代の空気なんかもうかがえます。歴史は単線ではなく、マジカルエミのような作品の系譜も「ドンパチ」の一方であったということが観えます。
■〈魔法少女〉の系譜
魔法少女アニメについては「少女と魔法」という研究書がある。発売当時自分も買って読んで、けっこういい本だった気がする。
ですがこの本、いつの間にか無くしてしまいました。アマゾンでは今すごいプレミアがついてるみたいですね。
たしか魔法使いサリーに始まって、重要作品にクリミィマミ、セーラームーン、ふたりはプリキュアあたりを取り上げていたような気がします。
マジカルエミについては言及されていたかは、よく思い出せません。図書館で借りて調べようかな……。
■マジカルエミのテレビシリーズ
11歳の香月舞は、魔法を手に入れて、自分の理想像である「マジカルエミ」に変身できるようになる。しかしときが経つにつれて、それは「ウソ」ではないかと思うようになる。夢をかなえられたはずが、夢から阻害されているのではないかという疑いを経由しての、成長が描かれる。
本来は子どもの成長願望を満たすためだった〈魔法〉が、かえって成長から遠ざけているという逆説はジャンルに大きな影響を残したと聞きます。たとえばまどかマギカでは、魔法少女たちが願いは最悪の形で叶えられ、かえって願いから遠ざかるという逆説の中にいます。
魔法少女モノの系譜としてみるとこんなことが言えますが、「蝉時雨」はこういった後続作品への影響とは別の方向に深化させているのではないかと感じます。
■蝉時雨
蝉時雨の冒頭15分がテレビシリーズ本編のダイジェストで、残りの約45分は、大人になったエミが、アルバムをめくりながらある夏の数日間ーー具体的には1985年8月26日から8月29日の4日間を回想するという構成になっています。この4日にはおよそストーリーと呼べるような起伏はなく、ただ日常の描写が積み重ねられています。さてさてこれはどういうことだ?
■モチーフと象徴
蝉時雨は一見してストーリーのようなものはないように見えます。けれどその分、一つ一つのモチーフが象徴的な意味を持っているのではないか?と感じました。
・あやとり
母親から習ってあやとりをはじめる舞。ひとつひとつの工程を確認しながら、ひとつひとつできることを増やししていく。その後の会話「ここのところ仕事が忙しいから、宿題やる暇もないな」というトポの言葉を否定する。舞は仕事に忙殺されることなく、余暇を満喫していると言う。
将にからまったあやとりをからかわれても、「自分でやるもん」とムキになる。うまくできなくても、自分でやることにこだわる。テレビシリーズで展開されたテーマが日常の小さなスケールで反復されている。
・オルゴール作り
舞のおじいちゃんはリビングでオルゴールをつくる。
「そんなことやってて楽しいの?」と聞いたあと、舞はあやとりをはじめる。当然舞は楽しくてあやとりをやっている。
ここでは仕事などとは異なり、行動の目的は問われない。目的から切り離された行動の中に、喜びが宿ったりする。
・みんな、何かの途中
舞は目的もなくあやとりに夢中になる。
おじいちゃんはオルゴールをつくり、昼間は庭の草むしりをする。
将は舞に渡すはずのお土産を探し続ける。
国分寺はテレビの企画書の練り直し。
・行き止まりの道
お使いの途中、あやとりに夢中になっている舞は、道を間違えて行き止まりに行ってしまう。何かに夢中になって時間をわすれ、目的へ向かう一連の流れがいったん停止する。
このくだりは劇中で唯一劇伴がつけられている。このシーンを境に、雰囲気が微妙に転調する。
・不可逆な時間
風に飛ぶ帽子。小金井のカップが割れてしまう。ユキ子さんは髪のカットをためらう。
舞は地面にエミの絵を描く。その後、通り雨にエミ絵は消えてしまう。時系列的には後だが、ここでテレビシリーズの結末が予感される。
しかしテレビシリーズの「成長の『結果』だけを受け取ることは、かえって成長から遠のいてしまう」というテーゼに対して、蝉時雨の一蓮の描写は成長だけではなくさまざまな事を包含しているように感じられる。結果だけを求めると失われてしまう何かを、蝉時雨は浮かび上がらせようとしているのでは?
・「途中」の終わり
洗濯物はとりこまれる。国分寺の企画が通る。将はお土産を舞にわたす。おじいちゃんはオルゴールを完成させる。
さまざまな「途中」だったアクションがゴールにたどり着いて終わる。雨が止んだ瞬間。光る水溜り、つかのま現われる虹に、舞は心をうばわれる。ここで流れる蝉時雨の音は、背景音ではなくむしろシーンの中心。
・オルゴール 反復される音楽 運命への抵抗
「あれ、ゆっこちゃん髪切ったの?」
「あ、わかる?」
「全然変わってないと思うけどな」
「変わりましたよ、ちょっとだけだけど」
このやりとりが暗に示すのは、あらゆるものは変わっていないようでも留まることはなく少しづつ変化しつづけるということ?
線香花火はつかのま輝いて消える。その落ちる火を、黄金井は受け止めようとして火傷してしまう。まるで時間の流れに抗うよう。
オルゴールは元来一回生の芸術だった音楽を、繰り返し繰り返し反復する。
・落差高
ところで、シーンが飛ぶたびに舞の家の前を流れる川の落差高のカットが挟まれる。このとき、川の流れの音が必ず入る。時間経過を示すためのものだけれど、それとは別に作品を象徴調しているようにも感じられる。川の水は絶えず流れているけれど、ひとところに留まることはない。まるで時の流れのように。
■気流の鳴る音
最後にちょっと、「気流の鳴る音」という本にふれておく。
アメリカ原住民のシャーマンとの交流記録を分析し、現代社会とは異なる社会のあり方の可能性を探求するという内容。
この本を自分が好きなのは、自分がヨコハマ買い出し紀行のことを通して感じる感覚に言葉をくれた感じがするからです。
呪術師ドン・ファンが言う〈トナール〉と〈ナワール〉という概念を使って、著者は私たちのものの捉え方を分析します。〈トナール〉とは「人間における、間主観的(言語的・社会的)な『世界』の存立の機制そのもの」らしいです。
それに対して〈ナワール〉とは「この〈トナール〉という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性」とのこと。言葉で理解される前の、世界のありようそのもの、という感じでしょうか。
あたかも近代文明が、あらゆる種類の本源的共同体とその自然との関係を、つぎつぎと風化し解体しつつ地表をおおいつくすように、〈トナール〉もまたその“機能性”によって、われわれの内なる〈ナワール〉を侵略し、抑圧し、包摂してゆく。あるいはむしろ、その言葉(ロゴス)による内的な世界分割完了してしまった時代をわれわれは通常生きる。そしてこの広大な、かつ抑圧された〈第三世界〉の開放と、それに向って〈トナール〉そのものを再構成してゆく課題が、われわれ自身の“自己解放”と、存在の”充然性“の獲得の問題の軸としてたちあらわれる。
孫引きになるけど、少し後にこう書かれます。
ドン・ファンはさらにつづけてつぎのように言う。
「たぶんおまえにも、“見る”ということは“世界と世界のあいだに”はいりこんだとき、つまり一般人の世界と呪術師の世界のあいだにいるときにしか起きないということがわかっただろう。今、おまえはその二つの中間にいるんだ。きのうおまえは、コヨーテが自分に話しかけたと信じておった。“見る”ことのない呪術師ならば、だれでも同じように信じるだろう。だが“見る”者は、それを信じることが呪術師の領域にクギづけにされることだということを知っている。それとおなじで、コヨーテが話すということを信じないと、ふつうの人間の領域にクギづけにされてしまうのさ。」
ここで〈見る〉ことへの“媒介としての”呪術師の世界、という考え方がはっきりしてくる。「呪術師の世界」は、「ふつうの人の世界」の“自明性”をくずし、そこへの埋没からわれわれを解き放ってくれる翼だ。しかし一方「呪術師の世界」を絶対化し、そこに入りきりになってしまうと、こんどはわれわれはその世界の囚人となる。
なんとなくマジカルエミっぽくないですね。
■「世界を止める」
気流のなる音からの引用続き。
「コヨーテと話した」体験を総括してドン・ファンは言う。
「おまえはただ“世界を止めた”んだ。」
「その止まったものってなんだい?」少しあとでカスタネダの質問にたいし、ドン・ファンはまた、こう説明する。
「人が世界はこういうものだぞ、とおまえに教えたことさ。わかるか、人はわしらが生まれたときから、世界はこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。」
現象学的な判断停止、人類学的な判断停止、経済学的な判断停止に共通する構造として、〈世界を止める〉、すなわち“自己の生きる世界の自明性を解体する”という作用がある。
エミは蝉時雨の声を聞くとき、あるいは舞が虹を見るとき、“世界を止め”る。そのとき何を感じているのか。
とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめは特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視覚を反転する。四つの壁の中の世界を特殊性として、小さな窓の中の光景を普遍性として認識する機縁を与える。自足する「明晰」の世界をつきくずし、真の〈明晰〉に向って知覚を解き放つ。窓が視覚の窓でなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。
オルゴールの音とともに、視点は現在の舞に戻る。失われた時を愛おしく思い出す舞は、ふと窓の向こうを見る。
そして「蝉時雨」の視聴者は、ふと窓の向こうを見て感じる。窓の向こうの景色に世界の現れを見るとき、言いようもない解放感を。