小説感想:うつくしい繭 (何が外界からわたしを護るのか)

うつくしい繭、の、感想をば(散漫になりそうですが)

 

 

うつくしい繭

うつくしい繭

  • 作者:櫻木 みわ
  • 発売日: 2018/12/19
  • メディア: 単行本
 

 

第一印象は、小説力が高いということ。情景描写、心理描写、ちゃんとしている。ちゃんとしているって言い方もあれだけど。自分はこんなにていねいに書けないのである。それと、文章がきれい。どうやったらこんなきれいな文章が書けるんだろう。

しかし玲瓏な文は何をいろどっているのだろう。
この視点をひとつのとっかかりに、各短編を見ていってみよう。

■苦い花と甘い花

収録された四編の中では一番はっきりとしたオチがある気がする。
東ティモールが舞台。他の短編にも言えるが、その地理的特性がよく反映されていて、それが大きな特徴のひとつになっている。東ティモールの古来の慣習やアニミズム的な感性がのこる一方、グローバル資本主義に飲み込まれていく。その間に揺れる人の話。アニミズム的感性を失いつつある東ティモールの写し絵なのだろうか。
キャラクターは、友達関係の機微が楽しい。レイラのツンデレなど。このツンデレシーンも都会的な学友とあかぬけない主人公レイラと、どちらの友達コミュニティに入るかというシーンになる。

さてこの短編の中で特に気になった描写が、ホテル・ティモールの建築様式と、そこでだされる豪勢な食事。つまりこの「苦い花と甘い花」の中においては、その描写力は資本主義文明の物資的な豊かさを彩ることに注がれているように感じられる。レイラはその物質的な豊かさに魅了され、最終的にアニータはアニミズム的な感性と決別し、”近代化”された社会に入っていくことを選択する。

ここで自分は漫画の『蟲師』を連想した。
蟲師の世界では人の営みの外側に自然があって、ときに人の世に不条理を差し込んでくる。
かつては自然と人は同じ理の中にいた。自然の一部だった人の営みは、やがて近代化することで自然と分離される。蟲師という職業が人と自然の間に立つものなら、世界観が近代と前近代の狭間にあるのも必然だ。
シリーズを通して人間と自然の関わりを、さまざまな切り口で語られる。最後のエピソード『鈴の雫』では、今人と自然はコミュニケーションできるのかがテーマになる。山の主を引き受けたカヤの選択は、自然全体と人との関わりを取り戻そうとする意志に見えるのだ。

『苦い花と甘い花』も”近代”と”前近代”の間にゆれる話だ。
おばあちゃんが交通事故にあったとき、籠がぶちまけられて卵がアスファルトの上に割れるシーンがある。
『苦い花と甘い花』は、まさにわたしをとり囲む「殻」が外界の、近代的な、資本主義の強大さに負けて割れてしまう話なのだ。
この話の中では世界の残酷さに負けて殻は破れてしまった。しかし殻を破れないようにする方法はないのだろうか?
じつはこの「私をつつむ殻」のイメージはあとにつづく短編でも繰り返しあらわれる。うつくしい繭ではコクーンとして、夏光結晶では貝殻として。

「わたしたちは、空や星がどうしてあるのか、命がどのように与えられ、死んだらどうなってしまうのか、すべてを知っているわけじゃない。君に、鼓膜の振動によるものとは異なる何かが聞こえて、それがミチコのいうように死者の声だという可能性がゼロであることは、ただ何ていうのか……」
眼鏡の奥で、異様に大きくみえる目をしばたいた。
「それはとても、アジア的な考えかただとわたしは思う」

おそらくは『苦い花と甘い花』で出された宿題に、「アジア的」なるものをもってしてどう回答するのかが、次に続く短編たちのテーマではないだろうか。

■うつくしい繭

このエピソードでは傷をつける外界にあたるのがネット社会、SNSコミュニケーションといったところだ。
主人公のレモネードは心の傷を負っていて、これを深刻にしているのはSNSによる接続過剰だ。心の傷の原因から適切な距離を取れないでいる。
舞台は施設自体がひとつの繭で、さらにその中にコクーン・ルームなるマシンがあるから、つまり二重の繭ということになる。
キャンベル的に言えば、このエピソードは全体が鯨の胎内に入ってから出るまでの話で、この二重のコクーンによってレモネードの心の傷をどう恢復させられるのかがテーマになる。

まず一つ目の繭である施設自体がネットから切り離された環境のため、ここである程度心の傷の原因から距離を置くことになる。ふるまわれるラオス料理をあじわい、施設内の子どもたちやおとずれる客との関係に包摂され癒されていく。ここでも料理はたっぷりと描写されているのだけれど、「苦い花と甘い花」とは対照に、ここで美文がいろどるのは生活の鮮やかさだ。生活の充実がひとつの繭になっている、と読める。
二つ目の繭であるコクーン・ルームについては、以下のように説明される。

「みえないからといって、そこに何もないということではないのよ……(中略)……記憶が、カイコの吐き出す、シルク糸のようなものだと考えてみて。たくさんの記憶が、繭のように押しかためられて放っておかれている。アクセスできないまま思い出すことのできない記憶が、私たちの中にたくさんある。記憶というのは、思い出されない記憶は手つかずで、いわば生の原材料みたいなものなの。そして、そこにあるのは、自分だけの記憶じゃない。動物としての身体の記憶、両親や祖父母、そのまた祖父母たちの記憶も、私たちのなかにある。コクーン・ルームの施術は、それらすべての記憶をスキャンして、いまの自分がもっとも必要としている記憶をみせてくれるの。繭を煮て絹糸を取り消し、そこから織物をつくりだすみたいに」

ここでアクセスという言葉が使われているのは、SNSによって傷ついていることを考えると示唆的だ。レモネードは、アクセス可能な、可視化されたものによって傷つけられていた。それを癒してくれるのはしかし、ふだんアクセスすることのできない記憶、SNSによって可視化されない関係性であるという。SNSからとりこぼされたさまざまな記憶……ときには自分のではない祖父世代の記憶にまでさかのぼる……によって「わたし」をまもるコクーンは作られる。
アクセスすることのできない、可視化されない関係性。不透明な記憶。そういったものを想像することは『苦い花と甘い花』でポルトガル人医師が言っていたように「アジア的」なものなのだろう。

※クロコディーロはおそらく東ティモール出身

■マグネティック・ジャーニー


製薬がインドでよくおこなわれているということをとりあげられる。一方で寺院やヒンドゥー信仰の描写もあり、ここでもグローバル資本主義と土着の慣習の両方が描かれる。
寺院の描写やサリーを着る描写がまたよく描写され、生活が彩られる。サリーの着る描写いいよね。
ここでは『夏光結晶』のプロローグ、前準備にあたるエピソードようにも見える。
というのも、ここでは土着の文化・慣習とグローバル資本主義の侵入が描かれる一方で「私をつつむ殻」は現れない。

※『苦い花と甘い花』のミチコさんと思われる人が話の中にでてくる。

■夏光結晶

 

タイトルがかわって、すごく良くなりましたね。原題の「わたしのクリスタル」が好きじゃなかったんですけど、『夏光結晶』は200点! という感じ。
さて、この短編はとても好きなんですけど、自分がただの百合豚の可能性もあるので……。けどポニョとかシンゴジラとかねほりんが唐突に混じってくるのは異物が混じる感じしてちょっと苦手かな。
本論の流れからいうとシエラさんの方が主人公に見えます。資本主義にどっぷり浸かりながら、都心の中の自然につかの間こころを癒される、そんな男ですからね(聖人の人格を流しこむクリスタルを癒しにつかうというのはエンジン・サマーを思い出します)
ここまでの短編を引き受けていうと、生活の充実と見えないものに繋がることが「わたしをつつむ殻」を壊さない方法と言えるでしょうか。後者は夏光結晶において地球の記憶にまで拡張されます。

貝殻には、その貝が生きた年数や食べたもの、何万年も前の噴火や地殻変動などの情報が詰まっている……数億年ものあいだ、海と大気の酸素の循環を担いつづけてきたことが分かる。けれどそれらのどの殻も、それを読み取ろうとする者がいなけば、ただのカルシウムとたんぱく質の結合物でしかないのだ。

生活の充実と見えないものに繋がることは地続きなのかもしれない。これは読み取ったわけではなくて、直感的にそう感じたというだけなのだけど。あってるかどうかはあなたに確かめてほしい。

■みえない繋がりについて

各短編の登場人物がじつは、知りあいの知りあいくらいの繋がりだったりして、ここにも「見えない繋がり」が見えてくる。
アジアをイメージするとき、自分の貧弱な創造力では、グローバル経済、資本主義にのみこまれて、どこでも同じようなファーストフードがあるとかショッピングモールがあるとかを思いえがちなの。けれど一方でこの短編群のつながりがみせてくれたのは、見えない人と人の繋がりのネットワークとしてのアジアのイメージだった。
そのようなイメージをもつ契機をくれた点をもって、短編たちが一冊の本にあつまったことは作品にとっても幸いであったと思う。

作者には以前オススメの漫画を聞かれたことがあって、そのときは迷ったすえ読んだばかりの百合漫画を勧めた。
今だったら漆原友紀蟲師』と五十嵐大介『魔女』『リトルフォレスト』を推すかな。