映画 海獣の子供

自分のツイッターからコピペ

 

海獣の子供 キャラクターだけでなく風景も原作再現度高い

 

海獣の子供 絵でゾクゾクできる箇所がいくつもあった

 

原作再現度高くて泣いちゃうな

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パンフの添野さんの解説がよかった。絵は最高なんだけどストーリーはニューエイジっぽいなと思っていたけれど、この解説ではそうではないということを強調されている。各シーンの役割、関連の解きほぐしもなるほどとなった

 

シアターガラガラになったころにもう一度見たい

 

海獣の子供 原作読み返す。これだよこれ。

 

海が出てくる話はニライカナイ信仰的な要素が欲しいよねやっぱり

凪のあすからが物足りなく感じるのもそれかな

 

海獣の子供よみおわた

映画何を取捨選択したのかだいたいわかり、付け加えられたところを含めて、どういった観点で再編成されたのかがみえる。ただ削られた部分に惜しいところもある

 

琉花視点でのジュブナイルにまとめるとしても、世界中で星斑の魚が消える現象をフックに使った方がクライマックスの生誕祭が盛り上がるようにも思うが

 

誕生祭で付け加えられた描写は画集の表紙のイラストから膨らましたと思われ、海獣の子供以外の作品からも引っ張ってそう

 

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その他メモ

 

海獣の子供は自分が絵を練習するようになったキッカケの作品だ。

映画も全肯定して没入したい気持ちがある。

ビジュアルについては文句がないほど完璧に原作を再現している。あの絵が動くって信じて作ったスタッフはすごいと思う。

 

一方ストーリーは、添野さんのコメントはあったが、ずっと神秘主義ニューエイジなのではというおもいがある。今もはっきりした答えは出ないが。

 

ふと、気流の鳴る音の言っていることとほとんど同じ気がしてきた。

アメリカ原住民の思想、近代西洋文明の外にある世界観、そういったものをロジックじゃなくシャーマンのトランスのように、しかしドラッグでなくビジュアル表現で導こうとしたのがこの作品なのかもしれない。

汝、コンピューターの夢

SFに求めるもの、というかおもしろいと感じる物語の必要条件はある程度箇条書きできるのだけれど、

ジョン・ヴァーリィの小説群は、そのほとんどを一つの作品の中に含んでいるように思う。

 

・センスオブワンダーに溢れる魅力的な設定(あらすじくらいの解像度にしても読んでみたくなる魅力を持っている)

・絵に描きたくなるような光景(印象的なシーンを持っていること)

・物語構成(読者を結末へ導く牽引力)

・切ない人間ドラマ(エモーション)

・SF設定ならではのテーマ その設定でこそ浮かび上がる人間や社会の一面

 

作者は元ヒッピーらしく、テクノロジーによって人間は社会通念から解放され自由を謳歌しているように見えるところにそういった出自が反映されている気がする。

たやすく体を乗り換え性別や年齢を入れ替えていく。しかしストーリーの中心にあるのは、そういった自由と引き換えにもたらされる不安や孤独だ。入れ替え可能であるがゆえに性別はもはやアイディンティティになりえない。性別以外のあらゆるものも同様だ。自分のもっていた属性が入れ替え可能になったとき、他人と何をとっかかりに関係をつくれるだろう……そういった問いかけがされる。

 

ハ世界を通底しているのは、故郷を失った悲しみだ。故郷を失い、アイディンティティの寄るべを失い、それでも人は誰かとのつながりを求めてあがいている。

 

 

個別の作品については読み返したときにちゃんとしたい。

 

■ピクニック・オン・ニアサイ

デビュー作とのことだけど、なんともビビッド。

1週間前までどつきあってたような友達が突然女になって言い寄られてドギマギするあたりおもしろいんだけど、

そのあとなんだかんだでバンバンセックスしてるのがなおさら可笑しい。

 

性自認の豊かな混乱があり、故郷を失った悲しみがデビュー作から通底している。

 

■逆行の夏

ジュブナイル感が強い。逆行する太陽、水銀の泉の光景の美しさ。

家族関係への違和感は思春期におこる普遍的な感情でもあるだろうけど、<チェンジ>の設定が

独特の喪失と成長を際立たせる。

 

ブラックホール通過

遭難モノ

 

■鉢の底

これまた情景がきれい

 

カンザスの幽霊

バックアップから復元された自分が何度も暗殺される。今度こそ殺されないぞと警戒しながら犯人を捜すミステリ。

その真相は、人格のバックアップがもたらす実存的な問題に通じる。このSF設定でこそ語れるテーマ。

また未来の独自の芸術のアイディアがおもしろい。

クライマックス、機械に宿るユーモアが未来を明るく照らす。

 

■汝、コンピューターの夢

コンピュータに意識が閉じ込められる話、だった気がする

 

■歌えや踊れ

音楽SFでありバディもの

 

小説感想:うつくしい繭 (何が外界からわたしを護るのか)

うつくしい繭、の、感想をば(散漫になりそうですが)

 

 

うつくしい繭

うつくしい繭

  • 作者:櫻木 みわ
  • 発売日: 2018/12/19
  • メディア: 単行本
 

 

第一印象は、小説力が高いということ。情景描写、心理描写、ちゃんとしている。ちゃんとしているって言い方もあれだけど。自分はこんなにていねいに書けないのである。それと、文章がきれい。どうやったらこんなきれいな文章が書けるんだろう。

しかし玲瓏な文は何をいろどっているのだろう。
この視点をひとつのとっかかりに、各短編を見ていってみよう。

■苦い花と甘い花

収録された四編の中では一番はっきりとしたオチがある気がする。
東ティモールが舞台。他の短編にも言えるが、その地理的特性がよく反映されていて、それが大きな特徴のひとつになっている。東ティモールの古来の慣習やアニミズム的な感性がのこる一方、グローバル資本主義に飲み込まれていく。その間に揺れる人の話。アニミズム的感性を失いつつある東ティモールの写し絵なのだろうか。
キャラクターは、友達関係の機微が楽しい。レイラのツンデレなど。このツンデレシーンも都会的な学友とあかぬけない主人公レイラと、どちらの友達コミュニティに入るかというシーンになる。

さてこの短編の中で特に気になった描写が、ホテル・ティモールの建築様式と、そこでだされる豪勢な食事。つまりこの「苦い花と甘い花」の中においては、その描写力は資本主義文明の物資的な豊かさを彩ることに注がれているように感じられる。レイラはその物質的な豊かさに魅了され、最終的にアニータはアニミズム的な感性と決別し、”近代化”された社会に入っていくことを選択する。

ここで自分は漫画の『蟲師』を連想した。
蟲師の世界では人の営みの外側に自然があって、ときに人の世に不条理を差し込んでくる。
かつては自然と人は同じ理の中にいた。自然の一部だった人の営みは、やがて近代化することで自然と分離される。蟲師という職業が人と自然の間に立つものなら、世界観が近代と前近代の狭間にあるのも必然だ。
シリーズを通して人間と自然の関わりを、さまざまな切り口で語られる。最後のエピソード『鈴の雫』では、今人と自然はコミュニケーションできるのかがテーマになる。山の主を引き受けたカヤの選択は、自然全体と人との関わりを取り戻そうとする意志に見えるのだ。

『苦い花と甘い花』も”近代”と”前近代”の間にゆれる話だ。
おばあちゃんが交通事故にあったとき、籠がぶちまけられて卵がアスファルトの上に割れるシーンがある。
『苦い花と甘い花』は、まさにわたしをとり囲む「殻」が外界の、近代的な、資本主義の強大さに負けて割れてしまう話なのだ。
この話の中では世界の残酷さに負けて殻は破れてしまった。しかし殻を破れないようにする方法はないのだろうか?
じつはこの「私をつつむ殻」のイメージはあとにつづく短編でも繰り返しあらわれる。うつくしい繭ではコクーンとして、夏光結晶では貝殻として。

「わたしたちは、空や星がどうしてあるのか、命がどのように与えられ、死んだらどうなってしまうのか、すべてを知っているわけじゃない。君に、鼓膜の振動によるものとは異なる何かが聞こえて、それがミチコのいうように死者の声だという可能性がゼロであることは、ただ何ていうのか……」
眼鏡の奥で、異様に大きくみえる目をしばたいた。
「それはとても、アジア的な考えかただとわたしは思う」

おそらくは『苦い花と甘い花』で出された宿題に、「アジア的」なるものをもってしてどう回答するのかが、次に続く短編たちのテーマではないだろうか。

■うつくしい繭

このエピソードでは傷をつける外界にあたるのがネット社会、SNSコミュニケーションといったところだ。
主人公のレモネードは心の傷を負っていて、これを深刻にしているのはSNSによる接続過剰だ。心の傷の原因から適切な距離を取れないでいる。
舞台は施設自体がひとつの繭で、さらにその中にコクーン・ルームなるマシンがあるから、つまり二重の繭ということになる。
キャンベル的に言えば、このエピソードは全体が鯨の胎内に入ってから出るまでの話で、この二重のコクーンによってレモネードの心の傷をどう恢復させられるのかがテーマになる。

まず一つ目の繭である施設自体がネットから切り離された環境のため、ここである程度心の傷の原因から距離を置くことになる。ふるまわれるラオス料理をあじわい、施設内の子どもたちやおとずれる客との関係に包摂され癒されていく。ここでも料理はたっぷりと描写されているのだけれど、「苦い花と甘い花」とは対照に、ここで美文がいろどるのは生活の鮮やかさだ。生活の充実がひとつの繭になっている、と読める。
二つ目の繭であるコクーン・ルームについては、以下のように説明される。

「みえないからといって、そこに何もないということではないのよ……(中略)……記憶が、カイコの吐き出す、シルク糸のようなものだと考えてみて。たくさんの記憶が、繭のように押しかためられて放っておかれている。アクセスできないまま思い出すことのできない記憶が、私たちの中にたくさんある。記憶というのは、思い出されない記憶は手つかずで、いわば生の原材料みたいなものなの。そして、そこにあるのは、自分だけの記憶じゃない。動物としての身体の記憶、両親や祖父母、そのまた祖父母たちの記憶も、私たちのなかにある。コクーン・ルームの施術は、それらすべての記憶をスキャンして、いまの自分がもっとも必要としている記憶をみせてくれるの。繭を煮て絹糸を取り消し、そこから織物をつくりだすみたいに」

ここでアクセスという言葉が使われているのは、SNSによって傷ついていることを考えると示唆的だ。レモネードは、アクセス可能な、可視化されたものによって傷つけられていた。それを癒してくれるのはしかし、ふだんアクセスすることのできない記憶、SNSによって可視化されない関係性であるという。SNSからとりこぼされたさまざまな記憶……ときには自分のではない祖父世代の記憶にまでさかのぼる……によって「わたし」をまもるコクーンは作られる。
アクセスすることのできない、可視化されない関係性。不透明な記憶。そういったものを想像することは『苦い花と甘い花』でポルトガル人医師が言っていたように「アジア的」なものなのだろう。

※クロコディーロはおそらく東ティモール出身

■マグネティック・ジャーニー


製薬がインドでよくおこなわれているということをとりあげられる。一方で寺院やヒンドゥー信仰の描写もあり、ここでもグローバル資本主義と土着の慣習の両方が描かれる。
寺院の描写やサリーを着る描写がまたよく描写され、生活が彩られる。サリーの着る描写いいよね。
ここでは『夏光結晶』のプロローグ、前準備にあたるエピソードようにも見える。
というのも、ここでは土着の文化・慣習とグローバル資本主義の侵入が描かれる一方で「私をつつむ殻」は現れない。

※『苦い花と甘い花』のミチコさんと思われる人が話の中にでてくる。

■夏光結晶

 

タイトルがかわって、すごく良くなりましたね。原題の「わたしのクリスタル」が好きじゃなかったんですけど、『夏光結晶』は200点! という感じ。
さて、この短編はとても好きなんですけど、自分がただの百合豚の可能性もあるので……。けどポニョとかシンゴジラとかねほりんが唐突に混じってくるのは異物が混じる感じしてちょっと苦手かな。
本論の流れからいうとシエラさんの方が主人公に見えます。資本主義にどっぷり浸かりながら、都心の中の自然につかの間こころを癒される、そんな男ですからね(聖人の人格を流しこむクリスタルを癒しにつかうというのはエンジン・サマーを思い出します)
ここまでの短編を引き受けていうと、生活の充実と見えないものに繋がることが「わたしをつつむ殻」を壊さない方法と言えるでしょうか。後者は夏光結晶において地球の記憶にまで拡張されます。

貝殻には、その貝が生きた年数や食べたもの、何万年も前の噴火や地殻変動などの情報が詰まっている……数億年ものあいだ、海と大気の酸素の循環を担いつづけてきたことが分かる。けれどそれらのどの殻も、それを読み取ろうとする者がいなけば、ただのカルシウムとたんぱく質の結合物でしかないのだ。

生活の充実と見えないものに繋がることは地続きなのかもしれない。これは読み取ったわけではなくて、直感的にそう感じたというだけなのだけど。あってるかどうかはあなたに確かめてほしい。

■みえない繋がりについて

各短編の登場人物がじつは、知りあいの知りあいくらいの繋がりだったりして、ここにも「見えない繋がり」が見えてくる。
アジアをイメージするとき、自分の貧弱な創造力では、グローバル経済、資本主義にのみこまれて、どこでも同じようなファーストフードがあるとかショッピングモールがあるとかを思いえがちなの。けれど一方でこの短編群のつながりがみせてくれたのは、見えない人と人の繋がりのネットワークとしてのアジアのイメージだった。
そのようなイメージをもつ契機をくれた点をもって、短編たちが一冊の本にあつまったことは作品にとっても幸いであったと思う。

作者には以前オススメの漫画を聞かれたことがあって、そのときは迷ったすえ読んだばかりの百合漫画を勧めた。
今だったら漆原友紀蟲師』と五十嵐大介『魔女』『リトルフォレスト』を推すかな。

 

映画感想:ドラゴンボール超 ブロリー

ドラゴンボールといえばド真ん中世代である。正確にはZ世代。テレビシリーズは今思い返しても、よく極限まで薄めた作劇を毎週見ていたと思う。展開が遅いとは思いつつも麻薬的にテレビを見つめていた水曜日のゴールデンタイム。そうそう、学校ではサイヤ人ごっこをする男子とセーラー戦士ごっこをする女子の間で日々抗争が繰り広げられていた……。

 

何年か前、久しぶりにドラゴンボール超として再アニメ化したが、このシリーズは見ていなかった。映画も「神と神」はテレビ放映しているのをちらりと見た気がするがその程度。戦闘アクションがもっさりしていてすぐにチャンネルを変えたような気がする。

あれだけ展開が間延びしていたかつてのテレビシリーズも戦闘シーンはたまにやたらと力が入っていて、原作以上にバイオレンスましましだった。それにくらべるとずいぶんちゃちくなったという印象を持っていた。

 

さて今回のブロリーの映画。惑星ベジータから始まる。ここでちょっと驚いた。

サイヤ人にも非戦闘要員もいる。男女の役割分業。生まれてくる子どもの選別。サイヤ人エスニシティがよく描かれている。Z時代の映画はここまで異民族の生活感はなかったような気がします。例えるならスターウォーズのような感じでしょうか→異星人のカルチャーが生々しく感じられるところ。

そういえばフリーザの船が宇宙空間を高速移動するところは、スターウォーズのワープ航法のシーンと似ていたので、あらためてスターウォーズの影響を受けているのかも。

 

キャラクターは敵味方両方に愛着が湧くようにできていますね。悪逆非道のフリーザ様でさえも可愛げがあるようにみえます。直前のシーンでブルマがドラゴンボールで叶えたいささやかな願いについてのシーンがあり、それを反復するかたちでフリーザの願いが語られます。天丼で出てくるので思わずフリーザに親近感が湧いてしまいます。おまえは大物界一の小物か。

ブロリーについては気性の激しさが父親によって歪められた結果だというエピソードがあったり、セクハラ親父を諌めるシーンがあったり、いいやつなんだなあと印象付けられますね。毛皮の腰巻には失ってしまった友情のエピソードが添えられます。腰巻は常に巻いているから、そのかぎりどんな激しい戦闘をしていてもこの男には友情の心があるんだという視覚的にインプリントされているわけです。

敵役にも愛着が湧くようにしてある。さすが鳥山先生。

 

戦闘シーンはやたら長いですが、作画が良いのであまり気になりません。飽きさせないようなアイディアがたくさん注ぎ込まれていると思いました。

特に3DCGの使い方がよいなと思いました。カメラが大きく回り込んだりが激しく動くシーン、大爆発などド派手なエフェクトシーンで特に使われていて、キャラクターの動きも早いので3D/手書き作画を意識せずにアクションに没頭できます。

 

さて、敵味方愛着のでるキャラに仕立て上げられた上での本気の殴り合いはどういった決着になるのか。そこでとられたのは暴力以外の解決方法。武力を持たないキャラクターの友情によってブロリーは故郷にワープさせられます。かつての連載での暴力への連鎖に反省があったのでしょうか。ハンターハンターのキメラアント編でも圧倒的な暴力を無力化したのは武力を持たない女の子でしたね。あれですらもう何年も前です。

ジャンプのバトル漫画の現在はこんな感じなんでしょうか。忘年会で今のジャンプ漫画はプラチナ期だと力説されましてちょっと興味がわきましたが、これを機会に読んでみたな、と思いました。

小説感想:草薙の剣

 読書会の課題図書なので読みました。

 

時代というものは、チーズや肉の塊のように、切り分けて簡単に区切りが作られるものではない

(p212)

草薙の剣は、日本の戦後を「年代」でなく「世代」で区切って整理し、世代間対立とそれが生み出される構造を描き出そうという試みだ、とひとまず言えると思う。
小説のタイトルである草薙の剣の意味が最後に明かされる。そこで語られるのは、父と子の対立=世代間対立と、子が父の呪縛に立ち向かう武器が必要だということらしい。
6人の主人公=昭生、豊生、常生、夢生、凪生、凡生は、名前からして各世代を象徴する存在であり、匿名的に見える。……しかしはたしてそうだろうか?

描写は広範にわたって目配せが行き届いている。生活様式、家族形態、そのときどきの経済や政治状況(いずれも日本史Aの資料集ぐらいの情報量な感じがするが)。

しかし登場人物の中で積極的に夢を見て時代を切り開いた人間がいただろうか。
全共闘山口百恵松田聖子手塚治虫ガンダムファミコンに、本気で熱中した人間が登場しただろうか。

いや登場はした。しかし彼らはそれぞれのシーン中ではメインで扱われていない、もしくはリアルタイム世代ではない。子供世代や親世代が熱中しているのを見て、あるいはテレビを通して見て、よくわからいだとか関心がわかないとか、そういう描写がとかく多い。どのキャラクターも世代の代表のようでいて、実際は時代を謳歌する(もしくは謳歌した)上の世代や下の世代への距離感によって書かれている。

誰も悪くない。父も。母も。それなのにどうして自分は苦しいのだろう? 「かつて若者だった大人は、根拠のない夢を変わらずに見ているしかし、当の若者には絶望しかない」と、誰かが言っていた。

(p346)

しかし夢を見ている大人はついぞ出てこず、誰かの夢に付き合わされる様子ばかりが書かれているような気がする。しかしそれでは片手落ちではないか。

最後の草薙の剣のくだりにはこうも書かれている。

……ミコトの授けられた剣は「草薙の剣」剣を得ることになるが、それより更に重要な火打石にはいかなる名前もない。
草を薙ぎ払うだけで、押し寄せる熱と炎と白煙を押し止めることが出来たのか? ヤマトヒメのミコトは黙って、押し寄せる敵迎え撃つ術を教えたのだ。大太刀を振るって敵をかわすより、迎え撃つことの大事を。

(p345) 

この小説は火打石たりえるだろうか?

草薙の剣

草薙の剣

 

 

シュガー・ラッシュ:オンラインの感想

ブログ開設してみました。

 

シュガー・ラッシュは一作目は未視聴です。

 

感想としては、まず第一にシュガーラッシュはメディアの和解の話であること。

この作品内では実在のゲームキャラクターが楽しげに登場します。映画にとってゲームは客を取り合うライバル関係にあると思うんですが、このしりーずではどうやらそういった対立は存在しなそうで、みな和気あいあい。第二作:オンラインはさらにネットに進出。これまた客の食い合いになりそうなネットサービスたちが実名で登場。ラルフとヴァネロペがはじめてネット空間に出たシーンはなんとも賑やかで華やかで鮮やかに描かれています。(twitterとか利用実感からするとあんなにかわいらしくないまである)

ネットを楽しげに描くというのにディズニー映画からしたらそもそも抵抗があるんじゃないかと思うんですが、そこは(ディズニーが経営の多角化にうまくいったからなのかなんなのか)クリア。よかったね。

もうひとつ目につくのはジェンダー的な面。シャンクの姉貴!かっこいい。ああいった役回りを女性キャラがやるのもジェンダー的な配慮で、なおかつ面白さに貢献しているのがよいところ。ポリコレ配慮と面白さを一致させないと意味がないからね。

それと、保守的な印象の強かったディズニープリンセスたちが茶化されます。もちろん世界マーケットを相手にする上での商業的な要請なんでしょうが、そういったものが商業レベル求められる事自体が興味深くもあります。散々ネタにされるプリンセスたちですが、クライマックスで華麗な連携プレーでラルフを救うシーンでちゃんとエクスキューズが入ります。このへんのケアの行き届きはさすが~という感じ。

一方でトランプ的なもの(非マイノリティポリティクスみたいなもの)を扱うのは難しいようで、画面の中には登場しません。(先行例だとズートピアがあつかっているけれど完全な和解には至っていないと思う)今後どう扱われていくのは気になるところです。