ネーム改稿のための覚え書き
漫画を描く
しばらく漫画が描けなくなっていたけれど、去年末にいろいろあっ他のがきっかけで、年があけてから一念発起また漫画を描こうと思った。
とりあえず四月の名古屋コミティアに出すのを目標にする(のちにコロナで中止になるのだが)
一月はぼんやり何を描くか考えていた状態。名コミの申し込み締め切りが2月頭だったので、内容はぼんやりまとまりきらないまま、イメージボードを兼ねてのつもりでとりあえずサークルカットを描く。
描くのがとにかく久しぶりだったので、とにかく描くためのモチベーションが湧くような題材を考えた。そこで思いついたのが、川辺の生活。実家が川の近くで、川辺の風景が好きだったのでそういった風景が描けるような話にしようというのが一つあった。サークルカットを描いた頃は胸キュンボーイミーツガール的なものを考えていた気もします。とにかくエンタメ度高めて読者に喜んでもらえればモチベーションも上がるのでは?という打算。
絵的なおもしろさも欲しいので現代を舞台にゴーレムを作る話にしようと考える。このアイディアは前にSF小説描いたときの設定の流用。もとをたどるとダンジョン飯2巻のおまけ漫画にあった、ゴーレム開発をITシステム開発に準えた4コマ漫画になるか。
並行して近くでやってたクロッキー会に参加する。絵もだいぶ離れてたのでなんとかリハビリ。
2月中旬から構想をまとめる。
作業はネームタンク渋谷分室の作業会で行った。とにかく作業を進めるとかかりが欲しかった。ネームを書き始めるが、どうにもフォーカスがぼやけていて結局ボツにする。上にあげたアイディア意外にも、公正についてのテーマを盛り込もうと考えていた気がします。これはおそらくるグウィンのオメラスから歩み去る人々を読んだ影響。とにかくアイディアが散漫でストーリーらしいストーリーにまとまらない。
描きたいテーマやモチーフはいくつかあっても、複数盛りこむことは決して悪いことではないと思う。それどころか重層的に作ることは大事だと思うので基本的に良いことだろう。
しかしまとまりが悪いままではしょうがないので、一部は切り捨てて次作に回すことにする(この決心をするのに大分時間がかかる)
次に、というかほぼ並行して、キャラクター配置をいろいろと考える。自分の場合テーマから考えることが多いので、それを展開するためのキャラクター属性、あらすじは大まかに導けるのだけれど、それを具体的にどういったキャラクターに割り振るかは難しいところ。キャラクターどうしの年齢、性別、職業の組み合わせを考える。属性を入れ替えてみたり、一人の役割を二人に分割したり、逆に二人の役割を一人にしてみたり。視点を誰にするかを考える。
今回はストーリ上の主人公と別に視点人物を撮ることで、テーマを引いた目で描くことにした。この語りは構造は蟲師から着想。すなわち、マレビトがある共同体に訪れて誰かの悩みを解決して去っていくという構造……
ようやくまとまってきたので、改めてシナリオを書き出す。流れがうまくつながるように直したのちネームを描き始める。書く過程でシーンを肉付けするためだったり見せ場を作るために、キャラクターの設定やバックグランドを発見していく(やってみるとこの工程は“発見“としか言いようがない)
ここまでくるとすんなりネーム第1稿ができあがる。作業会の参加者に見てもらった感じだとわりと好評だった気がする。このころは3月の中旬ぐらい。
3月下旬頃は下書きを始める。同時にネームにしてみると流れが不自然なところがあったので、つながるようにシーンを追加する。
このころは世間ではコロナが賑わってくる。
このあたりで同人イベントの中止が発表されだす。目標だった名ティアも中止に。どうしよう。
ネームのリライト
せっかく猶予ができたのでじっくり改稿することにした。ということでハリウッドリライティングバイブルを読みはじめる。
ハリウッド・リライティング・バイブル
ライティングはカオスから秩序へと向かうプロセスである。その秩序を早く手に入れるには、どれほど速く原稿用紙の升目を埋めるか、そして、どれほどライティングのプロセスや技術に関する知識を持っているかに関わってくる。またそれは、アイディアを脚本にする際に直面する困難さや、必要な調べものの量にも関係し、どれほど自分自身の創作のプロセスに自信を持てるかにも関わってくる。次々と浮かぶアイディアを素早く捉え、考え、まとめ上げる人もいるだろう。一方で、じっくりと考え、何ヶ月もの間アイディアを煮詰めては思いを巡らす、という人がいてもよい。脚本創作のプロセスは正しい方法などなく、そのプロセスはまさに人それぞれなのだから。
なんと心強い言葉か。自分は後者のタイプの作家が好きなので、おそらく自分も同じ分類だと思う。
さてさて、アドバイスをもとに、問題点を付箋に書き出してみる。
ライターズ・ノートを書く
ライターがノートを書くことで自分自身の生活や問題を探るように、ノートを作ることによって登場人物やテーマを探る機会を得られる。
- 登場人物の一人称で書いてもいいし、登場人物を三人称で書いてもかまわない
- 作り上げている登場人物とあなたが知っている人々との共通点を書くことも一つの方法だ
- ノートを通してテーマを探求することもできる
キャラクターの一貫性についてはかなり気になっていたので、ライターズノートを書くことにする。
とりあえず書いてみよう
経験豊かなライターほど、脚本を書く前にストーリーと登場人物について十分深く掘り下げるらしい。
一旦脚本を書きはじめたなら、終わりまで書き上げることが大切だ
ネームはとりあえず書いた!
三幕構成
この辺の知識はだいぶ入ってるので省略。
シーンの見せ方
- 優れたシーンは、観客がストーリーを理解するために必要となる情報を提供するとともに、ストーリーを前進させる
- 優れたシーンは、主人公のキャラクター性を明らかにする
- 優れたシーンはテーマを探求する
- 優れたシーンは、ビジュアル・イメージの構築も行う
また繰り返し語られるのは「語るより見せよ」説明セリフを見つけたら、キャラクターの具体的な行動に置き換えてみる。ファンタジーやSFなら、その世界ならではの設定を生かしたアクションにするのがいいと思う。
■ビートをはっきりさせる
「Aが起きてBが起きてCが起きる」みたいなストーリーがリズムよく展開するように意識する。
ビートがわかれば読者も乗りやすい。
■短調なシーンはアクションを加える
『危険な情事』を例にひかれている
■説明シーンに視覚性とドラマを持たせる
SFでは特に大事だと思われる。草野げんげんさんは変人のようでいてこのへんにすごく気を使われていると思う。
(CTuber小説の科学考証説明パートをラジオの科学子ども相談にするのはめちゃめちゃ面白かった)
本の中ではインディージョーンズが例で出されていた。このシーンはそのまま真似してみたい。
■どこでシーンを始め、どこで終わらせるか
始まりが早い→停滞する。時間の無駄
始まるのが遅い→シーンを理解するのに必要な情報がおたらされないので緊張、対立、サスペンスを築くのに不十分
どこでシーンをはじめるべきかを決めるには、まずどこでシーンを終わらせるかを決めることだ。
シーンが次のシーンで、どういった方角へ向かう必要があるのかについても考えなければならない
- シーンのポイントは何か
- なぜそのシーンが必要なのか
- そのシーンが伝える最も重要な情報は何か
- シーンの焦点は何か
- どこに向かっているのか
説明セリフにならないようにするためには情報でなく出来事を考えるのがポイントとのこと
シド・フィールド本
リライティングバイブルを読んでる途中に出ていることを知ったので購入。
結論としては、入手のしやすさにしても内容としてもこちらの方がいいと思います。懇切丁寧という点ではこちらの方が上。内容の具体性、全体の体系性の点でも断然良い。問題のチェックシートまでついてくる。おもしろいのは、何書いても批判してくるうちなる批評家をどうねじ伏せるかという手順をめちゃめちゃ具体的に書いている点だ。
とはいえ完全上位互換でもない。理ライティングバイブルはあれはあれでいいところもある。読者の注意を切れさせないための作劇上の細かいテクニックやキャンベル式神話論の応用はシドフィールドの本にはなかった。
通読したのち、巻末にあるチェックリストをやってみる。以下ピックアップした課題
- ストーリーg途切れ途切れでまとまりがない
- あまりにも多くの事がすごい速さで起こる
- ストーリーが緊張感とサスペンスに欠ける
- 物語が曖昧すぎる、薄すぎる、あまりに作為的
- 主人公にあまり共感できない
- 主人公の劇的欲求が曖昧で不明確
- 主人公は常に状況に反応するだけで、真の視点を持たない
- 登場人物の葛藤が不十分だ
- 目的達成のリスクが低すぎる
- 会話がぎこちなく、洗練されていない
- 素材にメリハリがなく退屈だ
さてこのシドフィールド本は、問題のある場所を3つの要素に還元する。すなわちプロット/キャラクター/構成。
上に箇条書きした課題の原因箇所はこの本のガイドに則るとキャラクターにあるようだったのでキャラクターのバックグラウンドやそこから生まれる思想、それと欲求について深掘りすることにする。バックグラウンドを考えるにあたって、時代考証もしっかりする必要を感じた。
何が課題か
- キャラクターのバックグラウンド、欲求
- 時代設定、歴史考証
- セリフでなくアクションで表現する
- シーンはどこから初めてどこで切るか
他にも検討し直す必要があるものはたくさんある。
リサーチ
ストーリーから逆算して、キャラクターの思想を考える。主に科学者の軍事研究
5月末に図書館が使えるようになったので、図書館データベースで本を検索して借りる&役立ちそうなところをコピー、を繰り返す。
時代背景の調査にはナチ占領時代のフランスについてやフランス占領時代のベトナムの調査についての本を。
世界設定を細かく詰めるためにカバラとAIの関係などの本を借りる。
……以上を元にシナリオを書き直す。結局微調整といえば微調整。時間かけた割にこれしか直さないのかとがっかりしたりもする。
7月からはネーム第二稿に入る。が、その前に今度は映像演出の技術について調べようと思う。
読んだ本とか (人工知能の夢の源泉はどこ?)
会社が完全リモートワークになって、前よりは本読むようになった気がする。
■ノンフィクション
LIFE3.0
マックス・テグマークは「数学的な宇宙」という本を書いていた物理学者。それが今では人工知能を研究しているというのだから、本屋で見かけたときは意外に思いました。
テグマークは前に書かれた本では『数学的宇宙仮説』を提唱していた。
- 数学的的宇宙仮説:私たちのいる物理的世界は数学的構造である
- 数学的構造:抽象的要素の集合であって、要素間に関係が定義されたもの。バゲージに依存しない形で記述される。
- バゲージ:便宜のために人間によって発明された概念および言葉。外的実在の記述には必ずしも必要ではない。
以上から宇宙は抽象的な要素間の関係以外いかなる性質も持たない、という結論が導かれるとのこと。
自分としては、いわゆるシンギュラリティ“機械が人間を超える”というのには懐疑的です。今人間の能力とされているもののほとんどを人工知能に置き換えられたとき、人間は人間の人間たる所以を定義しなおすのだろうと予想しています。事務作業、創作活動、社会の中の問題を人工知能が人間よりも合理的に解決できるようになったとき、人工知能にできて人間にできないことは何か考えることになるでしょう。
AI原論
これを読んだのはたしか発売当初の2018年で、2年ほど前。だけど前後の本に関連するので書いておきます。
著者はシンギュラリティに懐疑的な立場を取るが、それよりも興味深いのは、なぜ「シンギュラリティ=『人間を超越する知性』が生まれる」などという(著者に言わせれば誇大妄想じみた)言説が力を持つのかを考察しているところ。背景に一神教があるといいます。
一神教のロゴス中心主義について
ロゴスとは、万人の理性にうったえる20世紀の記号論理がくのような普遍的「論理」の面をもつが、それだけではない。それは啓示によって与えられる「神の御言葉」という神秘性をおびるものでもある。
そうして、人間の肉体をもって君臨した、イエス・キリストの唇から発せられた言葉(ロゴス)こそ、神の啓示に他ならない。こうして御言葉(ロゴス)の受肉というキリストのイメージが、三位一体の教義へと道を開いたのである
さらに、シンギュラリティ言説とグノーシス思想の類似を指摘。
端的にいって、両者(古代ギリシャの論理的思考と神秘的物語性)をそなえた汎用AIはこういう一神教的神話の二一世紀バージョンであり、決して謎めいたものでも、滑稽なものでもないのである。
きわめて単純化すれば、トランス・ヒューマニズムは「創造神/ロゴス中心主義/選民思想」という三つのキーワードで説明できる。救済計画をもつ唯一神がこの宇宙(世界)を想像したのであり、その設計思想はロゴス(論理)をもとに記述されていて、正確な推論によって真実にたどりつける。そして、選ばれた人間だけが、ロゴス(神の御言葉)を解釈しつつ正義の実現をめざすことができる。それが正しい行動なのだ。したがって、「絶対知すなわち神の値」という公式のもとで、これを実現する汎用AIという存在さえ位置づけることが可能になる。
グノーシス思想の現代リバイバルとしては、ニューエイジ思想の兄弟といえそうだです。
虚妄のAI神話
AI言論で引用されているシンギュラリティとグノーシスとの類似について軽く触れておきます。
シンギュラリティ仮説とグノーシス思想の類似性を指摘。著者によるとグノーシス思想には4つの特徴があると整理
- 不完全な世界の元凶である偽りの神とそれに支配力を奪われた真の神との対立
- ロゴス(論理)よりミトス(物語)を重視すること
- 精神と物質を完全に分けて考える二元論
- やがて大異変が訪れ、時間の断絶を経て真の神の世界が到来するとしている
さらに以下のように続く。
これら四つの特徴は、シンギュラリティ提唱者たちの主張にも同様に見られるものだ。
再びLIFE3.0
以上を踏まえてもLIFE3.0の議論は価値があると思います。この本で展開されている議論は「人工知能が人間の知性を超える」という主張を差し引いても成り立つからです。
AIが発達しブラックボックスが大きくなれば人間のコントロールから離れよからぬ結果をもたらす恐れがあるし、このリスクはAIが人間を超えるかどうかとは全く関係なく存在するでしょう。
ライプニッツの情報物理学
ライプニッツは興味深い人だ。ライプニッツはニュートンと同時期に微分積分を発明した一流の科学者だが、一方で神学研究もしている。
学問はデカルト以降専門化細分化されていき、すべての学問を修める人はいなくなったとどこかで聞いた気がするけれど、ライイプニッツの時代ではまだ神学と数学・自然科学を修め世界の全体をとらえようとする方法があった様子。科学には科学の適応限界があって超越的なものは否定しきれないものですが、じゃあそれを含めて世界の全体はどのようにとらえられるのか、ということを考えるにあたってライプニッツは参考になりそうだな、と考えたりします。
ある意味では、その後の科学の発展によって人類が獲得した世界観を、ライプニッツの哲学は先取りしているところがある気がしてくる。
たとえば<最善世界>は解析力学の変分原理の概念に似ているし、空間時間を副次的な生成物ととらえるモナドロジーはループ量子重力理論と共通している。実際、量子重力理論の研究者もモナドロジーを参考に読んだとか(真偽は不明)
もうひとつライプニッツの思想で科学を先取りしてるものがあります。
「普遍記号」――人間の思考のすべてを包括する記号体系――はのちにブール、フレーゲ、チューリングへと継承され、コンピュータとして受肉します。
ライプニッツの思想は情報科学として発展していった、逆に見ると情報科学のアイディアがライプニッツの思想の中に先取りされているともいえます。その観点でライプニッツの思想を分析してみようというのがこの本の試み。
実体(モナド)界と現象(知覚する現実)界の関係はチューリングマシンを比喩として見てみるとわかりやすいといいます、
メタトロン 情報の天使
これはわけのわからない本だった。流し読みだったけど、巻末の解説がわかりやすく要約してくれていた
ソル・ユーリックが最終的にいいたいのは、まず資本主義というのは人類がいるときから、ずっとあるんだと。極論すれば、十九世紀の産業革命以降始まったものではなくて、資本主義は人類のいる瞬間からある。同時に、恣意本主義はつねにすでに初めから情報資本主義だった。
これは一種の極論で、こう見たらどうなるかという思考実験の側面を含んでいるとのこと。
カバラ
カバラの思想について日本語で書かれた本としてはおそらくこれがベスト。全部読むのは大変なのでかいつまんで読んでます。
カバラ思想の中には古代エジプトの神秘思想の影響があるらしい。
古代エジプト起源の宇宙発生論によれば、二八個(アルファベットの数)は占星術的な暦による二八日に相当し、そこには聖なる存在の本質を形成する要素が含まれていると考えられた。大宇宙と小宇宙(人間)はこの聖なる文字の組み合わせと、”ゲマトリア”による文字のもつ数値計算による秘儀的解読法を通じて理解されるものとした。
ゲマトリアが導入されたのは十二世ごろのドイツらしい。
言葉の数値を調べ、その象徴的意味を理解することで占い、予知、魔術、現世的利益のために役立てようとする通俗的カバラが育ち始めていた。盲人イサクが危惧したとおり、カバラ神秘思想は変質し始めていた。具体的には”ゲマトリア”およびノタリコンと呼ばれる手法が導入され始めていた。”ゲマトリア”とは、単語のそれぞれの文字に付された数値によって隠された象徴的意味を把握しようとする手法である。
カバラ思想においてゲマトリア手法集大成させたのは、ボルムスのエレアザールという人だったらしい。エレアザールは主著『秘密の秘密』の中でゴーレムの作り方について書いている。
具体的な作り方についてはボルヘスの『幻獣辞典』で解説されている。
必要な手順としてはおよそ二十三の二つ折り本の円柱を網羅し、「二百二十一の門のアルファベット」の知恵を要し、それをゴーレムの器官ひとつひとつの上で復唱しなければならない。「真理」を意味する《emet》という文字を額に記す。この生き物を殺すには、その最初の一文字を消し去る。《met》という後は「死」の意味である。
うしおととらでもありましたね。
宇宙と宇宙をつなぐ数学
ABC予想の証明が査読を通ったとのこと。
このニュース事態は大変めでたいことだが、不満だったのが「数学の天才」というキャラクターの安易な消費のされ方だった。
例えばこんなの↓
このニュース恐ろしいのは、望月教授の「数学の研究を進めるには、ある程度話が通じる相手がある程度の人数いる環境でないと難しい」というコメントですよね……日本最高峰の研究所でも「ある程度」なの…ってhttps://t.co/aEHwM7GcEA
— dragoner (@dragoner_JP) 2020年4月3日
「宇宙と宇宙をつなぐ数学」の面白さは第一には宇宙際タイヒミュラー理論の解説なのだけれど、個人的に興味を持ったのが望月教授のブログに触れられているところだった。
望月教授が海外で発表したがらないのは、彼が性格的にシャイだからだ、という意見もありますが、それはおそらく正解ではないと思います。実際、こういうことに唯一の正解があるとも思えませんし、理由はいろいろあり得るとは思いますが一つには彼自身が度々口にしていたこととして、彼が人一倍旅行や国際旅行が苦手であること、そしてそれが彼の長いアメリカでの滞在経験と深い関係のある、個人的ではあるが、ある種の普遍的な問題に根ざしている、ということが挙げられます。これについては、ブログで、彼自身の言葉で語っていることを直接読んでいただいた方がよいでしょう。
そのブログがこちら
「心ある壁」を構築し、維持することの重要性 | 新一の「心の一票」 - 楽天ブログ
「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性 | 新一の「心の一票」 - 楽天ブログ
ブログの中にこんな記述がある。
このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。
無味乾燥にみえる数学の理論も。一人の人間の心を苗床に咲いた花なのでしょう。
科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか
科学倫理学という学問があるのかはわからないが、読んだ印象だと、どうも”科学者は軍事研究に関わるべきではない” という考えはそれほどコンセンサスがとられていないのかもしれない。とはいえアインシュタインはじめ有名な科学者は大体反対しているような。
科学者の立場で書かれているが、安全保障面や政治、社会、倫理学の観点からも妥当性は語れないのか気になるところ。
実在とは何か
物理学者マヨラナの失踪について考察したエッセイのようなもの。警察は自殺説をとっていたが家族はその仮説を受け入れず。はたしてその真相は?
実はマヨラナがその後も生きていることは確認されているらしいので失踪だったわけですが、じゃあその動機は何かというのがこの本の主たるテーマ。
レオナルド・シャーシャの推測は、原子爆弾の開発に向かおうとしてた科学に失望して物理学を放棄したのではないかというものだったが、著者は違う答えを提示する。
ここで私たちが提示しようと思う仮説は、もし量子論力学を支配している約束事が、実在は姿を消し確率に場を譲らなければならないとするなら、そのときには、失踪は実在が断固として実在であると主張し、計算の餌食になることが唯一のやり方である、というものである。
マヨラナは現代物理学の確率論的宇宙における実在の規定の範例的な暗号をみずからの身をもって作り上げたのだった。
アセクシュアルのすべて
この言葉も大分メジャーになりましたね。
読んでみると思ったより定義は広く、自分も十分にアセクシャルの中に含まれそうです。恋愛だけが実りある人間関係じゃないよみたいなことを手を変え品を変え言ってくれます。
正直自分自身それほど困ってるわけではないけれど、今後社会とコンフリクトを起こしたときに読み返すと元気をもらえるかも?
■小説
タイタン
野﨑まどがバビロンの続きを書くのがいやになって逃避で書いた小説(と思われる)
今回のテーマは汎用AIと仕事といったところでしょうか。
流行の技術トピックを延長して未来のビジョンを作るという点ではknowと共通しています。knowのころはビッグデータとかライフログとかウェアラブルデバイスとかが話題になってた頃ですね。
作中でそれに対応するのが情報材ネットワークと電子葉でした。今回は汎用人工知能と3Dプリンターで、作中でそれに対応するのが「タイタン」というAI。
そして中心になるテーマは「仕事」。knowはそれまでまどが取り組んできた”全知と超越”をジャンルSF小説でやったのに対して、タイタンのテーマの選び方はバビロンに似ているように思います。なんというか、テーマの選び方が大きくて社会派な感じ。(メディアワークスのころはおもしろい映画とは?とか世界一おもしろい小説とは?とか不死とは?とか友達とは?とか、もうちょっと日常によりそった素朴なものだった)これは作品の射程を大きくするようでいて、デメリットもあるように思う。まどの長所であるはったりの効いた概念の転倒が難しくなる。社会的なテーマになればなるほど人文学問の中での議論の蓄積があり、その議論の厚みを盛り超えて驚かせてみせるのはけっこう難しい。バビロンは「悪」の概念の提示に苦慮していきずまっているように見えるし、タイタンの仕事という概念の結論についてはハンナアーレントが人間の条件ですでに言ったことに見える。そういった意味で期待していた驚きがないなあと思った人もいるでしょう。
とはいえタイタンはつまんないかというと全然そんなことはありません。スケール感もあり、視覚的な見せ場もあり、人間とAIの関係について新しいビジョンを提示することもできています。ここはかなりよいところ。
それと今回、野﨑まどの定番だったヒロインの聖女/魔女的表象をやめています。どんでん返しの魅力にもなってましたがミソジニー的でもあり、今のご時世だと弱点だなと感じていたのですが、今回そういった要素がありません。hello worldの一行さんのキャラはとてもよくできていたと思いますが、集団制作の影響(特にキャラクターデザインの堀口悠紀子さん)で作風にフィードバックがあったのかもしれません。
■漫画
大人になっても
志村貴子は引き算の美学に貫かれている。
描線に無駄はないし輪郭線や髪の描線も極力減らされている。演出面でもシーンはバッサリと切られ、大胆に飛ばされる。青い花のクライマックスであーちゃんがふみちゃんをふってる描写が飛ばされてるのは驚いた。
そしてテーマにおいても引き算の美学になっていると思う。いわば「諦念と執着」だ。
人はいろんなものを諦めていって、それでも最後に諦められないものが、執着が残る。志村貴子のキャラクターの多くは諦念と執着で設計されているように思う。
『おとなになっても』の中で下のようなモノローグがある。
別に運命の出会いとか思ってない
今まで何度も運命を感じたことあるけど気のせいだったし
だけどないとも思ってない
だってあるかもしれないし
諦念のなかで執着が際立ちますね。
id:INVADED
アニメが面白かったので後日談のコミックも購入。アニメはミステリが構造的にはらむ問題(後期クイーン問題?)に対する批評的なアプローチがありエンタメとしてもよく練られていてとてもおもしろかった。コミックの方はメタミステリー的要素は後退して道具立てでめいっぱいのサスペンスを展開する。本堂町ちゃんのサイコパスっぷりが冴えわたっている。
五等分の花嫁
気になっていたけれど 完結したということで一気読み。
ロマンスと同時にシスターフッドの話でもあり、両者の並立が葛藤の源であると同時に 一方が他方の安全弁にもなっている。企画からして強いぞ!
恋人選びとしてはギリギリまで拮抗しているがバディ選びとしては納得感のある着地。ただ、ポリガミーか輪番で夫婦やればよくね?と思ってしまった。
風の十二方位
短編集はわりと収録作をかいつまんで読むことが多いんですが、思うところあり、ル=グウィンの「風の十二方位」を通読した。
せっかくなので収録作ひとつひとつ感想をメモしとこうと思います。
セムリの首飾り
『浦島効果』といった言葉もあるように、浦島太郎をSF的に解釈するのはあるあるだけど、セムリの首飾りはまさにそういった話。
ワンアイディアをしっかりまとめているなという印象。
巻頭にこれを置いているとおり、ファンタジー要素とSF要素が織り込まれた作風はこの後に続くルグウィンの作風を示している、作家としての実質の出発点なのだろう。
表紙の絵はセムリ。
四月は巴里
巴里を舞台にしたタイムスリップもの。なんだか牧歌的。
マスターズ
サイエンス(と社会の衝突)をテーマしにした作品。
ところで、テッドチャンがサイエンスフィクションのサイエンスの側面を大切にしようというようなことを言っていた気がする。
自分がほぼはじめて読んだSF小説があなたの人生の物語の短編集だったこともありSF観はこれで刷り込まれた。
またブルーバックスやニュートンを愛読して、物理の勉強をしていた自分にとっては科学それ自体がとてもおもしろいものだと思っているし、
自分でSFっぽいものを書くときは科学それ自体のおもしろさを盛り込みたいと思っている。
暗闇の箱
「風の十二方位」は、各作品冒頭にある作者による解題がやたらと丁寧なのだが、暗闇の箱での娘さんのエピソードはほっこりする。
ファンタジーに属する作品。海辺の情景描写がよい。
開放の呪文/名辞の掟
アースシーのスケッチ的な作品。
未だにゲド戦記を読んだことがないのだが、このスケッチからどのように世界が広がるのか、いつかあたってみたい。
冬の王
この辺りで最初の作風の変化があったように感じられる。
おそらく超光速通信のガジェットが出た最初の作品か?
これまでの作品とは違い、SFガジェットをドラマに上手く落とし込んでいる。
語りも独特で、いくつかの写真の様子を順番に回想していくような構成になっている。
小説の他のメディアと比べたときの長所として、語りの自由さがあると思う。
語りの構造がテーマと結びついていたりすると、小説ならではだなーと感じられてなおよい(エンジンサマーとか)
グッド・トリップ
お気に入りの作品。収録作の中でも特に切なくてエモい。
九つのいのち
作者曰く、めずらしくハードSF=「量的科学の一部門における最新の研究から直接に外挿したテーマの考察」を書いたとのこと。
冬の王と同様、SF設定をドラマに落とし込み、人の内面を掘り下げるスタイル。
上の引用部分はこう続く。
しかし、テーマは、質的に、心理的に展開されている。本質的に、わたしは科学的要素を、目的そのものとしてではなく、隠喩あるいは象徴として、それ以外の方法では表現できないあることを述べる手段として、使っているのである
SF小説はストーリーというものを必要とする以上、かくありなんと思う。
三幕構成のフォーマットにわりとのっていて読みやすかった。
もの
ファンタジーもの。世界の背景の多くは伏せられているようだけど、読後感はとても爽やか。
これも情景描写がよい。
記憶への旅
この作品は印象が薄い
帝国よりも大きくゆるやかに
はじめは確か、伴名練の「光より速く、ゆるやかに」と前後して読んだ。元ネタを確認したかったからだ。(少なくとも表面的には関わりはなさそうだったけど)
オスデンの孤独には自分を重ねるし、彼の最後の選択は胸を打つ。
「光より速く、ゆるやかに」は発表時点での瞬間最大風速を狙ったというけれど、たしかに、普遍性においてはこの作品の方が強度があるのかもしれない。
ところで、いろんな星人で編成された調査隊というのは萩尾望都の11人いる!っぽいなと思った。おそらく元ネタの一つなのだろう。
地底の星
この作品の地底がメタファーだとするなら、最近みたアニメのイド:インヴェイデッドやその元になったねじまき鳥クロニクルの井戸に通じるだろう。
→つまりはそれは、無意識の世界。
みんな、夜空は暗いと言うが、星と星のあいだは虚空で暗い言うが。だが、星と星のあいだの空間に望遠鏡を向けると、ほうれ、星があるのだ! 目で見るには遠すぎて、光も弱すぎる。星の列のそのまたうしろの、壮麗の上にも壮麗な、宇宙のさいはてにある星々だ。あのはるかな暗闇のなかにも、想像を越えた光がある。太陽の壮麗な輝き。わたしは見たのだ。夜ごとに見て、星座を描いた。暗黒の浜辺の神の灯台の。そうしてここにも光があった! 光のないところなどないのだ。見捨てられ、除けものにされた場所などないのだ。暗黒にとりのこされた場所などは。神の目が見たまうところに、光はある。われわれはもっと先に進まねば、もっと先を見ねばならぬ! 見ようとするならば、光はある。目で見るばかりでなく、手の業や、頭の知識や、魂の誠実さが、見えぬものを見せ、隠されたものをあばいてくれる。そうしてこの暗い地の底の底も眠れる星のように輝いている。
※蟲師の「壺天の星」を連想したりもした
視野
作者の解題を見るに。どうもあまりこの作品は気に入ってないらしい。たしかに、多少ベタなネタをひねりなく出してる気もする。
作品内で語られる神は、汎神論的だ。神即自然。
そういう意味では僕も神を信じている。
相対性
タイトルからして相対性理論の話かと思いきや、道端の木が一人称で語る不思議なものだった。
おそらく、実際に作者の生活圏で道端の木に車が衝突する事故が起きたんだと思う。
こんなところに木が生えてるのが悪いみたいな論調に対して意を唱えたくてこの小説を書いたんだろうなーと想像する。
生活の中の卑近な出来事が執筆のモチベーションになっているようで、好感がもてた。
オメラスから歩み去る人々
風の十二方位の中で最も好きな作品。寓話の形式をとっている。
オメラスの寓意はさしずめ万能のナイフで、なんでもこれでよく切りさくことができる。
サンデルの「これからの正義の話をしよう」の序盤で取り上げてるように、この寓意は正義論の根本的なところをついているのだろう。
正義はいつも選別を迫られる、何を犠牲にして何を守るのか。
巷に言われるようなコテコテなオルトライトに実生活の中で出会ったことはないが、
素朴な功利主義やリバタリアニズム的な自己責任論には、意外なほどちかごろ遭遇することが多かった。
自分もオメラスの地に立つ一人の人間だけれど、どこに向かえばいいかはまだわからない。
天気の子の話
オメラスを読んだとき「天気の子よりオメラスの方がいいな」と思った。
天気の子については、帆高は陽菜を守れるのか? という点が引っかかっている。
花火大会のとき、陽菜の巫女としての力は広くマスメディアで報道され顔バレもしている。
もし現実の日本で天気の子のようなことがおきたらどうなるか?
陽菜は即行で特定されネットリンチに遭うに違いない。子どもである帆高は多分守れない。大人がしっかりしないといけない。
もう一点。天気の子は言ってみれば“天災の人災化”だけど、
真に問題なのは“人災を天災であるかのように受け止る”メンタリティだと思う。
オメラスの人々の多くは、あの街の契約を自然の摂理であるかのようにすり替えて見て見ぬふりをする。
しかしやはり、それは正義にかなってはいないだろう。
革命前夜
長編「所有せざる人々」の前日譚で、オドー主義を唱えたオドー(の妻)の最晩年を描いた作品。
老いの描写がリアルですごい。
オドー主義の革命の様子を描きながらも、その理念の限界が先取りされているような、そんな予感に満ちている。
真相はいかに? ということで「所有せざる人々」にもトライしようと思います。
番外
以前大森望さんに“ルグウィンの小説はちょっとした脇役にも名前がついてて、誰が重要人物かわからないから読むのが大変だ”と言ったら、
それはルグウィンの多様性志向の表れだよというようなことを教えてくれました。
なるほどなと思いつつしぶしぶ人物表をかきながら読むのだった。
蝉時雨とヨコハマ買い出し紀行
去年の十一月、アニメ趣味の人たちの飲み会に呼ばれたことがありました。
もっぱら相槌を打ちつつ勉強させてもらうという感じでした。
まあアニメの同好の徒らとはいえ、周りに比べると自分はそれほど詳しいわけではないわけで。
そのとき会話の前後の流れはよく覚えていないけれど、「おすすめ」と紹介された作品がマジカルエミのOVAの蝉時雨でした。
日ごろからヨコハマ買い出し紀行をマイベスト漫画と言っていたからだったと思う。蝉時雨の監督の安濃高志さんはヨコハマ買い出し紀行のOVAの監督も務めている。
後で調べたところ鶴田謙二のSpirit of wonderのOVAも監督をしていたことを知り、完全に自分の大好きラインの人だとわかりました。
チャイナさんはよく模写して描いたものです。
意を決してマジカルエミのBOX、ヨコハマ買い出し紀行のOVA、それとSpirit of wonderのOVAのDVDも揃えた(先月はこれでかなりの出費になった……)
以下蝉時雨周辺の雑感メモになります。
■ヨコハマ買い出し紀行と安濃高志監督
ヨコハマ買い出し紀行OVAのおまけの原作者芦奈野ひとしのインタビューにはこう書かれています。
Q. 監督の安濃さんなんですけど、芦奈野先生も昔からご存じだったそうで、いつ頃から安濃さんを意識し始めたんですか?
A. 昔ちょっとアニメに関わっていた、その時代ですね。だからもうかれこれ10年くらい前、その時代に安濃さんの「蝉時雨」が仲間内で話題になってんですよ。今までこんなのあまりなかったと。普通あの時代からアニメってドンパチドンパチがはやり始めてて、動きがどうか、というのが第一だったんですけど、安濃さん間というか、空間というか、そういうのを大事にしている印象を受けました。今回、その方が監督をしてくださるということで、なんと幸運なんだ、と思いました。
原作者:芦奈野ひとしインタビュー(OVA ヨコハマ買い出し紀行)
ヨコハマ買い出し紀行も、時間の流れと風景が重要な作品ですから、どこか通底したものを感じます。
「あの時代」というのは、「蝉時雨」の制作は1986年なので、同時期のアニメ作品だとZガンダムとか愛・おぼえていますかあたりでしょうか。もう少し時を下ると1988年にAKIRA、1989年には御先祖様万々歳やポケ戦が出てくるので、この頃にはリアル系作画が大きな潮流になっている様子。井上俊之さんなどの史観だとAKIRAをメルクマールに以前以後と分けてるようですがそれ以前からリアル系作画の勃興があり、1988年にそういった流れがAKIRAに結集したと考えるのが自然なのでしょう。芦奈野先生のインタビューからはそんな時代の空気なんかもうかがえます。歴史は単線ではなく、マジカルエミのような作品の系譜も「ドンパチ」の一方であったということが観えます。
■〈魔法少女〉の系譜
魔法少女アニメについては「少女と魔法」という研究書がある。発売当時自分も買って読んで、けっこういい本だった気がする。
ですがこの本、いつの間にか無くしてしまいました。アマゾンでは今すごいプレミアがついてるみたいですね。
たしか魔法使いサリーに始まって、重要作品にクリミィマミ、セーラームーン、ふたりはプリキュアあたりを取り上げていたような気がします。
マジカルエミについては言及されていたかは、よく思い出せません。図書館で借りて調べようかな……。
■マジカルエミのテレビシリーズ
11歳の香月舞は、魔法を手に入れて、自分の理想像である「マジカルエミ」に変身できるようになる。しかしときが経つにつれて、それは「ウソ」ではないかと思うようになる。夢をかなえられたはずが、夢から阻害されているのではないかという疑いを経由しての、成長が描かれる。
本来は子どもの成長願望を満たすためだった〈魔法〉が、かえって成長から遠ざけているという逆説はジャンルに大きな影響を残したと聞きます。たとえばまどかマギカでは、魔法少女たちが願いは最悪の形で叶えられ、かえって願いから遠ざかるという逆説の中にいます。
魔法少女モノの系譜としてみるとこんなことが言えますが、「蝉時雨」はこういった後続作品への影響とは別の方向に深化させているのではないかと感じます。
■蝉時雨
蝉時雨の冒頭15分がテレビシリーズ本編のダイジェストで、残りの約45分は、大人になったエミが、アルバムをめくりながらある夏の数日間ーー具体的には1985年8月26日から8月29日の4日間を回想するという構成になっています。この4日にはおよそストーリーと呼べるような起伏はなく、ただ日常の描写が積み重ねられています。さてさてこれはどういうことだ?
■モチーフと象徴
蝉時雨は一見してストーリーのようなものはないように見えます。けれどその分、一つ一つのモチーフが象徴的な意味を持っているのではないか?と感じました。
・あやとり
母親から習ってあやとりをはじめる舞。ひとつひとつの工程を確認しながら、ひとつひとつできることを増やししていく。その後の会話「ここのところ仕事が忙しいから、宿題やる暇もないな」というトポの言葉を否定する。舞は仕事に忙殺されることなく、余暇を満喫していると言う。
将にからまったあやとりをからかわれても、「自分でやるもん」とムキになる。うまくできなくても、自分でやることにこだわる。テレビシリーズで展開されたテーマが日常の小さなスケールで反復されている。
・オルゴール作り
舞のおじいちゃんはリビングでオルゴールをつくる。
「そんなことやってて楽しいの?」と聞いたあと、舞はあやとりをはじめる。当然舞は楽しくてあやとりをやっている。
ここでは仕事などとは異なり、行動の目的は問われない。目的から切り離された行動の中に、喜びが宿ったりする。
・みんな、何かの途中
舞は目的もなくあやとりに夢中になる。
おじいちゃんはオルゴールをつくり、昼間は庭の草むしりをする。
将は舞に渡すはずのお土産を探し続ける。
国分寺はテレビの企画書の練り直し。
・行き止まりの道
お使いの途中、あやとりに夢中になっている舞は、道を間違えて行き止まりに行ってしまう。何かに夢中になって時間をわすれ、目的へ向かう一連の流れがいったん停止する。
このくだりは劇中で唯一劇伴がつけられている。このシーンを境に、雰囲気が微妙に転調する。
・不可逆な時間
風に飛ぶ帽子。小金井のカップが割れてしまう。ユキ子さんは髪のカットをためらう。
舞は地面にエミの絵を描く。その後、通り雨にエミ絵は消えてしまう。時系列的には後だが、ここでテレビシリーズの結末が予感される。
しかしテレビシリーズの「成長の『結果』だけを受け取ることは、かえって成長から遠のいてしまう」というテーゼに対して、蝉時雨の一蓮の描写は成長だけではなくさまざまな事を包含しているように感じられる。結果だけを求めると失われてしまう何かを、蝉時雨は浮かび上がらせようとしているのでは?
・「途中」の終わり
洗濯物はとりこまれる。国分寺の企画が通る。将はお土産を舞にわたす。おじいちゃんはオルゴールを完成させる。
さまざまな「途中」だったアクションがゴールにたどり着いて終わる。雨が止んだ瞬間。光る水溜り、つかのま現われる虹に、舞は心をうばわれる。ここで流れる蝉時雨の音は、背景音ではなくむしろシーンの中心。
・オルゴール 反復される音楽 運命への抵抗
「あれ、ゆっこちゃん髪切ったの?」
「あ、わかる?」
「全然変わってないと思うけどな」
「変わりましたよ、ちょっとだけだけど」
このやりとりが暗に示すのは、あらゆるものは変わっていないようでも留まることはなく少しづつ変化しつづけるということ?
線香花火はつかのま輝いて消える。その落ちる火を、黄金井は受け止めようとして火傷してしまう。まるで時間の流れに抗うよう。
オルゴールは元来一回生の芸術だった音楽を、繰り返し繰り返し反復する。
・落差高
ところで、シーンが飛ぶたびに舞の家の前を流れる川の落差高のカットが挟まれる。このとき、川の流れの音が必ず入る。時間経過を示すためのものだけれど、それとは別に作品を象徴調しているようにも感じられる。川の水は絶えず流れているけれど、ひとところに留まることはない。まるで時の流れのように。
■気流の鳴る音
最後にちょっと、「気流の鳴る音」という本にふれておく。
アメリカ原住民のシャーマンとの交流記録を分析し、現代社会とは異なる社会のあり方の可能性を探求するという内容。
この本を自分が好きなのは、自分がヨコハマ買い出し紀行のことを通して感じる感覚に言葉をくれた感じがするからです。
呪術師ドン・ファンが言う〈トナール〉と〈ナワール〉という概念を使って、著者は私たちのものの捉え方を分析します。〈トナール〉とは「人間における、間主観的(言語的・社会的)な『世界』の存立の機制そのもの」らしいです。
それに対して〈ナワール〉とは「この〈トナール〉という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性」とのこと。言葉で理解される前の、世界のありようそのもの、という感じでしょうか。
あたかも近代文明が、あらゆる種類の本源的共同体とその自然との関係を、つぎつぎと風化し解体しつつ地表をおおいつくすように、〈トナール〉もまたその“機能性”によって、われわれの内なる〈ナワール〉を侵略し、抑圧し、包摂してゆく。あるいはむしろ、その言葉(ロゴス)による内的な世界分割完了してしまった時代をわれわれは通常生きる。そしてこの広大な、かつ抑圧された〈第三世界〉の開放と、それに向って〈トナール〉そのものを再構成してゆく課題が、われわれ自身の“自己解放”と、存在の”充然性“の獲得の問題の軸としてたちあらわれる。
孫引きになるけど、少し後にこう書かれます。
ドン・ファンはさらにつづけてつぎのように言う。
「たぶんおまえにも、“見る”ということは“世界と世界のあいだに”はいりこんだとき、つまり一般人の世界と呪術師の世界のあいだにいるときにしか起きないということがわかっただろう。今、おまえはその二つの中間にいるんだ。きのうおまえは、コヨーテが自分に話しかけたと信じておった。“見る”ことのない呪術師ならば、だれでも同じように信じるだろう。だが“見る”者は、それを信じることが呪術師の領域にクギづけにされることだということを知っている。それとおなじで、コヨーテが話すということを信じないと、ふつうの人間の領域にクギづけにされてしまうのさ。」
ここで〈見る〉ことへの“媒介としての”呪術師の世界、という考え方がはっきりしてくる。「呪術師の世界」は、「ふつうの人の世界」の“自明性”をくずし、そこへの埋没からわれわれを解き放ってくれる翼だ。しかし一方「呪術師の世界」を絶対化し、そこに入りきりになってしまうと、こんどはわれわれはその世界の囚人となる。
なんとなくマジカルエミっぽくないですね。
■「世界を止める」
気流のなる音からの引用続き。
「コヨーテと話した」体験を総括してドン・ファンは言う。
「おまえはただ“世界を止めた”んだ。」
「その止まったものってなんだい?」少しあとでカスタネダの質問にたいし、ドン・ファンはまた、こう説明する。
「人が世界はこういうものだぞ、とおまえに教えたことさ。わかるか、人はわしらが生まれたときから、世界はこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。」
現象学的な判断停止、人類学的な判断停止、経済学的な判断停止に共通する構造として、〈世界を止める〉、すなわち“自己の生きる世界の自明性を解体する”という作用がある。
エミは蝉時雨の声を聞くとき、あるいは舞が虹を見るとき、“世界を止め”る。そのとき何を感じているのか。
とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめは特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視覚を反転する。四つの壁の中の世界を特殊性として、小さな窓の中の光景を普遍性として認識する機縁を与える。自足する「明晰」の世界をつきくずし、真の〈明晰〉に向って知覚を解き放つ。窓が視覚の窓でなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。
オルゴールの音とともに、視点は現在の舞に戻る。失われた時を愛おしく思い出す舞は、ふと窓の向こうを見る。
そして「蝉時雨」の視聴者は、ふと窓の向こうを見て感じる。窓の向こうの景色に世界の現れを見るとき、言いようもない解放感を。
きみと、波にのれたら
湯浅政明監督の新作。
事前情報からは、ポスト君の名はかつ男女反転ルーの歌という感じに見えた。
見た感想一言、とてもよかった。
シナリオを引き立てるための絵づくりで、あくまでシナリオが主、画面作りが従といった関係に感じる。
以前たまこラブストーリーのダイアログを一部写経したときに感じたのは、
会話が情報のやりとりにとどまらず、かわす言葉一つ一つによって
キャラクターの内面(考え方や感じ方、気分や感情)が多かれ少なかれ必ず変化していっていること。
積み重ねによって内面は大きく変わっていく。
その観点で無駄なものがほとんどないというのが驚き。(また写経したい)
今作はとくにシナリオをメインに据えているかんじだったので尚更シナリオの良さがよく見えたのかなという気がします。
クライマックスシーンにむかって、
波に乗れないという問題を抱えてた主人公が乗り越える、それを示す一覧のアクション
妹をボートに載せるのは子供のころ、港にそうしたのと反復される。そこに自分を発見したはずだ。
クリスマスメッセージで泣かせにくるタイミングは完璧だと思った。悲しみを乗り越えた瞬間に送られた祝福の言葉だ。
あと、卵を焼くアクションが全編通して見るとキャラクターの対比と成長を表していたり。
演出面だと、序盤のカラオケモンタージュの多幸感がすごい。
妹さんとの百合感も良(?)。
水がサラッとしている印象。
海水も、潮風も、ベタついた感じがしない、ここらへんの質感は海獣の子供とは対照的か。
自然そのものを克明に描写することが目的になっていた海獣の子供に対して、
きみと、なみにのれたらはあくまで人間関係の雰囲気を表現するための海、という感じがある。
八世界:サブライムとノスタルジア(さようなら、ロビンソンクルーソー)
下巻のさようなら、ロビンソン・クルーソーも読み終わったのでこれでヴァーリィの八世界の短編はコンプリート
ヴァーリィの短編の特徴はざっくりそれぞれ対置される4つの要素にあるように思う
世界
↑
否定的← →肯定的
↓
社会
■びっくりハウス効果
SF作家が観光ホテル化した彗星に乗って太陽をまじかで見るツアーに参加。
アトラクションとして趣向を凝らすため、客には事前に記憶喪失の処置を施して
さまざまな仕組まれたアクシデントを楽しんでもらおうという趣向。
太陽のそばを通過するシーンはこのたんぺんのなかで最もサブライムな箇所だ。
“それでもサーラスはまだ彼のくるぶしをつかんでいた。彼女だけが、彼の宇宙に残された唯一の存在だった。その他には、わずかな残骸が、輝く小さな星となって、はるか彼方をくるくると回転しているだけだった。
そして太陽だ。
十秒ごとに視野を横切っていく太陽を、彼は直接見ることができた。ほとんど球体には見えず、通り過ぎるごとに、それは平らなm沸き立つ平面となって視野に広がっていった。荘厳で、圧倒的な存在感を持つそれは、ほとんど耐えられないほどの重圧でもって、彼の自我を押しつぶした。”
終盤はSF作家の1人称語りということもあり、ヴァーリィのSF観がストレートに出ている気がする。
“誰がなんと言おうと、スリルはたやすいものではない。それを生み出すには技術がいるし、芸術性も必要。また本当のスリルとは何で、単に面白いだけものは何かという知識もいる。”
アトラクション中にできた絆は記憶の回復とともに失われてしまう(テクノロジーによる孤独)
“もしも二人の心が自分たち自身のものであったら、今でも親密なままでいられたかもしれない。しかし、あの魔法の言葉が発せられたとたん、自分がそれまで演じていた存在とは違う人間だとわかってしまったのだ。愛した相手が、思っていたような人間じゃないと知ることですらつらいのに、自分だと思っていた人間が自分じゃないというのは、それほどきついことか。”
ここで記憶を消去するという技術は、エンターテイメントによりスリルをもたらす一方で、自己同一性を脅かし不安をもたらすものとして描かれている。テクノロジーの両義性が現れていると言える。
“わたしは、サーラスが、共に見ていた夢から覚めたときに見せたあの表情を、決して忘れはしない。夢は去った。サーラスは私がそう思っていたような人物ではなかった。わたしは、どこか別のところで、〈慰め〉を探さなければならないのだろう。”
上巻の感想で書いたコメントをもう一度書いておく。
八世界を通底しているのは、故郷を失った悲しみだ。故郷を失い、アイデンティティの寄る辺を失い、それでも人は誰かとのつながりを求めてあがいている。
■さようなら、ロビンソン・クルーソー
冥王星のリゾートで過ごす二度目のプレ思春期とその終焉を描く。
“さようなら、南海の楽園よ。こうなるまでのきみは、愉快な遊び相手だった。いまのぼくはもうおとなだ。これから戦争に行かなくちゃならない。
たのしくはなかった。いくらその時期がきたとはいえ、幼年期を後にするのは体の一部をもがれるように辛いことだった。今や自分には責任がのしかかり、それを背負っていかなくてはならない。”
二度目のモラトリアムに別れを告げ大人の世界へと戻っていく。
八世界短編の中では最もゆるい。なにせブラックホールがしゃべるのだから。いちおう人知を超えた存在という感じにはしているが、しゃべる時点でコミュニケーション可能なのにはちがいない。(その点、人を介して喋ったマインドイーターの野生の夢はうまかったと思う)
シナリオ的にはクローンと人口制限の問題があり、テクノロジーによる疎外が主題となっている
■イークイノックスはいずこに
土星のリングを舞台に、生き別れた5つ子をさがす、ロードームービー風のお話。やや冗長にも感じるけれど、子供と巡り合う苦労を実感するにはこのボリュームが必要か。締めが秀逸。
■選択の自由
性転換技術をめぐる人々の戸惑いと変化を描いた作品。性転換技術はこれまでも出てきたけれど主題に据えて掘り下げたのはこれが唯一か。ヴァーリィらしいサブライムな情景描写やモラトリアム感はないけれど、退屈さは微塵もない。というのも作品に起因するというよりは読み手たる自分とその取り巻く環境に起因しているように思う。要はテーマが今日的で興味深いわけだけれど、この小説の初出は1979年。40年前! 時代が作品に追いついたという感じだ。
近視眼的に作品を書いてはいけないという戒めとして受け取りたい。
■ビートニク・バイユー
「愛は性を超えるか?」というのが選択の自由のテーマだとしたら、ビートニクバイユーは「愛は時差を超えるか?」というテーマだろうか。
プロの子どもとして教育に従事する人が出てくる。その職業ゆえに子どもでい続けなければならない。
恋愛に年齢差は関係ないとはよく聞く言葉だけれど、共に時間を積み重ねて変化していくことができないのなら、それでも愛は変わらずにいられるだろうか? テクノロジーがもたらす孤独がここにも現れている。
後になるほどテーマはシリアスになっていく反面、軽やかさ、若者の視点がだんだん薄れていくように思った。