現代の神秘主義の変遷:ニュータイプからルナティックへ

 

 

Netflixで先日公開された磯光雄監督の新作『地球外少年少女』は、「増えすぎた人間を減らすために彗星を落とす」というプロットにおいて、あるいは最終話で全裸で精神世界(っぽいVR空間)を漂う絵面をあげてガンダムを連想させるところがありました。興味深かったのはかつてニュータイプだったものがセブンと呼ばれる超高知能AIや脳インプラントに置き換えられている点です。これはニューエイジ思想的なものから「神秘主義」を脱臭して現代的にしたように見えます。しかし、本当にそうなのでしょうか。

以下ではニューエイジ思想と技術的シンギュラリティのそれぞれグノーシス神秘主義との類似性を検討していきたいと思います。

ヴァチカン曰く「ニューエイジはかたちを変えたグノーシス主義である」

ローマ教皇庁文化評議会/教皇庁諸宗教対話評議会によるニューエイジについての研究報告書『ニューエイジについてのキリスト教的考察』の中でヨハネ・パウロ2世の以下の言葉が引用されています。

ニューエイジと呼ばれる衣をまとった古代のグノーシス思想の再来という問題があります。これが宗教の刷新をもたらす、などと錯覚してはなりません。これはグノーシス主義の新しいじっせんにすぎません。グノーシス主義とは、神についての深い知識を持っているという名目で神のことばを覆し,単に人間的なことばに置きかえることに終わるだけの精神的姿勢のことです。グノーシス主義は一度もキリスト教の領域から離れ去ったことはありません。それどころか、つねにキリスト教とともに生き続けており、ときにはそれぞれの時代の哲学的視聴の形をとり、より多くの場合は、公然とではなくとても、実質的にキリスト教の本質と対立する、宗教的、または疑似宗教的形態をとりながら存続しているのです。

カトリックはこのような研究を出すあたり巨大な官僚組織で、教皇の言葉も教皇庁の調査研究を反映してのものに見えます。言っていることはやや外観的で何が具体的に似ているのか分かりづらいので、別のところを引用してみましょう。

ニューエイジ的思考の基本的な枠組みは、神智学のエソテリックな伝統に見出すことができます。……エソテリックな世界観においては目に見える世界観と目に見えない世界観はさまざまな照応、類否、影響関係でつながっています。こうした照応は、小宇宙と大宇宙、金属と惑星、惑星と人体の諸部分、目に見える宇宙と目に見えない実在の領域の間に存在します。……人は(魂ないし霊の器官である)想像力によって、また霊媒(天使、心霊、悪魔)ないし儀礼を用いて、上部世界ないし下部世界に接続することができます。

人は霊的変容の道を通じて、宇宙、神、自己の神秘に導き入れられることができます。最終的な目的は「グノーシス」です。グノーシスとは、知の最高の形態であり、救いと等しいものなのです。

下部世界(現世)から、何らかの手段で上部世界にアクセスするというのがニューエイジ思想の特徴としています。これらはグノーシス主義と一致するのでしょうか。

グノーシス 古代キリスト教の<異端思想>』によると、キリスト教グノーシス主義に共通する特徴は、

  • 目に見えるこの世界を、それを創造した神を含めて蔑視し、排斥する
  • この世界の外、あるはその上にある上位世界(プレーローマ)」、そしてそこに位置している「至高神」を信奉する
  • 人間の霊魂も、もともとは上位世界の出身
  • 霊魂がこの世界から開放され、故郷である上位世界に戻ることが「救済」とされる

とあります。

カトリック教皇庁の指摘どおり、救済のイメージはグノーシス主義ニューエイジ思想はかなり似ているように見えます。

技術的シンギュラリティの由来

技術的シンギュラリティ――人工知能がやがて人類の知性を超えるという説――を最初に提唱したのは、SF作家で科学者でもあるヴァーナー・ヴィンジでした。彼の言説はフォンノイマンの影響を受けています。フォン・ノイマンは自己複製オートマトンについて、オートマトンが自身より高性能なオートマトンを作れるようになったら性能が指数的に増大するだろうと予想しました。

ヴァーナー・ヴィンジがこの考えに対して数学用語の「特異点」をあてました。特異点は関数が発散する点のこと(たとえばy=1/x^2という関数におけるx=0; x→0に漸近するほどにyは∞に発散します)急激な性能向上を例えるのにこの言葉を使ったようです。

※ただし、フォン・ノイマン自身は「人智を超えた超越的な知性」については言及しませんでした。

もうひとつ、ヴィンジのアイディアはムーアの法則にも依拠しています。ムーアの法則とは「マイクロプロセッサの集積度はおおよそ18ヶ月毎に倍になる」という半導体業界の経験則のこと。

ヴァーナーヴィンジ以降様々な人がシンギュラリティの議論をしましたが、最も有名な人物の一人はレイ・カーツワイルでしょう。彼は著書『ポストヒューマンの誕生』のなかで、シンギュラリティは2045年に訪れると予想しています。内容としては、前述のムーアの法則の発展のようなかたちでコンピュータ内のトランジスタ数が全人類の脳のニューロン数の総和を超えるのが2045年ごろだろうという主張だったと思います。

2040年代の中盤には、1000ドルで買えるコンピューティングは10^26cpsに到達し、一年間に創出される知能(合計で約10^12ドルのコストで)は、今日の人類の全ての知能よりも約10億倍も強力になる。

ここまでくると、たしかに抜本的な変化が起きる。こうした理由から、特異点――人類の能力が根底から覆り変容するとき――は、2045年に到来するとわたしは考えている。

この言説は巷によく流通していて、「2045年問題」なんて言われたりもします。

AIを扱ったフィクションではしばしば2045年もしくはその前後が舞台となることが多いですが、それはカーツワイルの言説に影響されたものです。ディープラーニングが注目をあびてからはSFの定番になっており、地球外少年少女の舞台が2045年設定なのも当然この説を下敷きにしているとみていいでしょう。

シンギュラリティは神秘主義

シンギュラリティがバズワードになってからこちら、近年ではAIの議論はますます活発になっています。物理学者のマックス・テグマークは最近は人工知能LIFE3.0の中では、シンギュラリティに対する様々な態度を整理しつつ、AIが人間にとってアンコントローラブルになる事態を想定していまから対策を考えるべきだと主張します(わたしもこの意見には同意します。AIが人類を超えるかどうかとは別の問題として、そういった対策は考えるべきでしょう)

一方AIが人間の知性を超えるという議論に対しては批判もあります。たとえば『機械カニバリズム』や『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』ではAIと人間の知性を同じものさしで測って比較しようとすること事態を、人間というものをせまく捉えているとして批判しています。また、フランスの哲学者ジャン=ガブリエル・ガルシアは『虚妄のAI神話』の中で、技術的シンギュラリティ言説のグノーシスとの類似性を指摘しています。この主張の内容を少し見てみましょう。

『虚妄のAI神話』において、技術的シンギュラリティ言説のグノーシスとの類似性が指摘されています。

グノーシス主義者とインギュラリティ提唱者の第一の類似点は、あるがままの自然を否定し、自然を変えなければならないとしている点である。両者は共に、自然は不完全だから、精神がその大望を実現し飛躍を遂げるように、ただしてやらなくてはならないと主張している。これを補い膨らませているのが、隠された知識が存在するという考えだ。隠された知識とは、この場合、不器用な造物主の失敗作である自然を正し、乗り越える道を教えてくれる、隠された進化の法則である。

このシンギュラリティとグノーシスの第一の類似点からは、ただちに第二の類似点が導き出される。それは議論の進め方が似ていることである。論理を重んじる思想では、一般に、寓話や伝説の世界に属するミトスと、命題を論理的に積み重ねて論証するロゴスを対立させて捉えているところを、グノーシス思想では、ふたつを一緒にして、まるごと広大な宇宙へ取り込んでしまう。それと同じように、科学では、実証実験や数学的証明に基づいた論理的議論と、小説家や映画作家の想像の産物をはっきり区別しているが、シンギュラリティの思想家たちは、両者をひとつの大きな物語にひっくるめてしまうのである。

カーツワイルの主張はムーアの法則を拡張するかたちで(カーツワイル自身は収穫加速の法則と読んでいる)シンギュラリティを予想していますが、法則とは言うもののベースあくまで経験則。科学的論証というより物語であるとガナシアは批判します。

こうしてみると、ニューエイジにしろ技術的シンギュラリティにしろ、グノーシス神秘主義の違うあらわれのようですし、この点で2つは類似しています。グノーシス的なものは時代時代でそのよそいを変えながら現れるとも言えるかもしれません。

正しいアップデート

地球外少年少女における”ルナティック”というワードは技術的シンギュラリティの言い換えと言っていいでしょう。ルナティックしたセブンは意味不明な言葉を吐き出し、セブンポエムと呼ばれますが、後半で実はセブンポエムが完全正確な未来予知だったことが明らかになります。意味不明に見えた言葉の羅列は、知性が高度に発達しすぎたために人間の理解が届かなくなったという描写になっています。

未来予知とは原理的にはなかなか難しいもので、天気予報で例えればわかりやすいと思うんですが、1年後の東京の天気を正確に予想することは不可能と言えます。所謂バタフライ効果というやつで、初期値の僅かなゆらぎが結果に大きな影響をもたらすゆえに長期予測が原理的に困難であるというものです。しかしここで問題にしたいのは科学考証的な正確さではなく、原理的には難しいはずの未来予測に対してなぜ視聴者はリアリティを感じてしまうのか、という点です。これはまさに、技術的シンギュラリティという言説の神秘主義的な側面を現代のわたしたちはなんとなく部分的に受け入れているということではないでしょうか。

ニューエイジは過去のものになりましたが、シンギュラリティは現在進行形の世俗カルチャーの神秘主義です。それゆえにニュータイプ的なものが超知能AI=ルナティックにおきかわっているのは正しいアップデートであると思います。

地球外少年少女は30年早いのか?

ルナティック描写については現代に薄く受け入れられている神秘主義をフィクションの中に昇華したものとして強度があると思います。

ニューエイジ的なもの(と派生のニュータイプ的なもの)にガチになる人がそう多くないように、5年10年もしたら「なんかAIにやたら夢見てた時期があったよね」といった感じで案外耐用年数は短いかもしれませんが、ガンダム時代精神を適確に捉え今なお日本アニメのマスターピースになっているように、地球外少年少女がそう言ったものに並ぶポジションを得る可能性もあります。

しかしそれはおそらく監督の言う「下手すると30年速い」とは別の意味にると、わたしは”未来予想”します。